何度禁止しても守られなかった「男女混浴」

 明治維新の後、新政府は日本を欧米列強と対抗できるよう、さまざまな施策を講じた。それはしばしば庶民の生活にも干渉することが少なくなかったが、そうした変革のひとつに「公衆浴場での混浴の禁止」がある。具体的には、銭湯での混浴の禁止である。

 日本での銭湯は、天正19年に江戸で開業したものが最初とされている。まだ江戸幕府が開かれる前であり、江戸の街はまだ建設中だった。

 江戸時代の都市部では、自宅に浴室を持つことができたのは、禄高の高い一部の高級武士か、あるいはかなりの資産を有する豪商くらいだった。大多数の武士から町人に至るまで、外部の入浴施設すなわち銭湯を利用するのが一般的であった。

 その銭湯だが、大浴場のようなものではなく、今日の家庭用くらいの浴槽とやや広めの洗い場がある程度の施設がほとんどだったようで、したがって、男湯と女湯を分けることなど不可能だった。そのため、最初は男湯と女湯がそれぞれ専門の銭湯が営業を始めた。

 ところが、これでは来客が少なく営業的に厳しいということで、女湯であっても男性が入浴できる時間帯や日を決めて営業するケースが増えた。こうしたことから、やがて入込湯という混浴の銭湯が登場する。松浦静山の随筆集『甲子夜話』にも、「多くは入込とて、男女群浴することになり」(巻三二)と紹介されている。当然、全裸の女性に男がよからぬ行為をするケースも少なくなかったらしい。そのため、風紀上好ましくないと幕府が何度も禁止したが、ほとんど効果がなかったとのことだ。

 そして明治維新になっても、銭湯は入込が主流だった。欧米に追従することで日本の近代化を進めようとしていた新政府は、さっそく明治元年に東京の外国人居留地周辺での混浴を禁止した。翌明治2年には大阪でも同じく禁止令が出され、明治3年には東京全域での銭湯等での混浴が禁じられた。

 しかし、当時の複数の資料を調べてみると、この混浴禁止令はほとんど守られなかったらしい。庶民の習慣はそれほど簡単には変えられなかったようだし、そもそも、業者が守らなかった。そのため、その後何度も禁止令が出されることとなった。

 それでも、いくら出してもキチンと守られない。明治33年5月25日の『東京日日新聞』(現・『毎日新聞』)をみると、「客の来集を目的とする浴場に於いては、十二才以上の男女をして混浴せしむることを得ず。前項に違背したる営業者は、二十五円以下の罰金に処す」という内務省令が発令されたことを報じている。

 そして、明治40年頃になってようやく、銭湯などの公衆浴場施設での男女別が徹底されるようになった。

 それにしても、混浴を禁止することでどのような「近代化」が実現したのであろうか。ちなみに、21世紀の日本でも、温泉地などで男女混浴は残っているが、大きく風紀が乱れたとか、大きく逸脱した行為があったという話は、あまり聞いたことがない。
(文=橋本玉泉)

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