ぼくはあるストリッパーの名前を決して忘れない……。
ドリーム・マキさん。京都の「千中ミュージック」で七色のスポットライトを浴びながら、ぼくは劇的な童貞喪失を彼女相手に体験することになります。いや、そのはずだったのですが……。
当時のストリップといえば過激路線一筋で、1981年は”本番生板ショー”全盛の年。どこの劇場でも、舞台の上で踊り子さんとお客たちがセックスをしていたんですね。一説では、船橋のある劇場では1日に100人以上の客が射精していたそうです。
ストリップは見るものではなくやるものだ!
(自由国民社)より
一部の劇場では、今でも”本番生板ショー”をしているところがあるようですが、一般的にはまずお目にかかれません。AVアイドルが応援団に囲まれて、華やかに舞い踊る現在のストリップしか知らない人にとっては、驚天動地のショーだと思いますが、実はぼくは学生時代からず~っと、ストリップの舞台で童貞を捨てようと思っていたんですね。なんかドラマチックに喪失したくて(笑)。今でも目立ちたがりな性格ですが、舞台の上でって、どんだけ劇場型?
というのはともかく、その日はドリーム・マキさんが舞台に上がっていました。まだお若いけれど、当時のストリッパー独特の姐さんムードいっぱいのいい女。
1曲終わると、舞台の上に布団が敷かれて、「はい、1名様どうぞ」とマイク・アナウンスがあります。彼女とできるのはひとりだけ。舞台に上がって、数名の客とジャンケンです。
どうしましょ、勝っちゃった……(笑)。ぼくがマキさんとセックスする権利をゲットしたのでありました。
というわけで、公衆の面前でズボンとパンツを脱ぎ、マキさんにウェットティッシュでチンチンを拭いてもらいます。皮を被ったしなびたチンチンにスルスルスルとゴムを装着してもらい、いざ、夢のホールへ。
※『ストリップのある街』
(自由国民社)より
ところが、今ならともかくまだシロウトの時代ですから、緊張してピクリとも動かないんですね。しなびた小ナスの漬物のように、情けなく股間で揺れているぼくのチンチン。最初はフェラチオでなんとか立たせようとしていたマキさんも、今や完全にあきらめモードです。舞台は回り、ミュージックだけが何曲も流れていきます。
「おい、兄ちゃん、お前のフニャチン見飽きたぞ!」
「包茎は降りろ、降りろ!」
「お前、足の裏汚いのぉ! 真っ黒やぞ!」
ドッと笑い声が起こります。そして、マキさんがそっとささやきます。
「あんた変態?」
ひ~ん、これでは立ちませ~ん!
というのが1981年のぼくの、ごく私的出来事。私的ではあるけれど、本当にどこのストリップも本番だらけだったんですね。さらにこんなものもありました。
「ドリーム事件」の後、東京に戻ってある劇場に行ってみると、小屋の隅に個室ができていたんですね。舞台で本番ショーをしている間にここでフェラチオ・サービスをしてもらう、というわけです。行列に並び、順番が来て中に入ると、お姉さんはなぜか仮面をつけていました。
こちらはいともあっさりとドピュピュ(笑)。やはり公開本番は重荷だったようです。彼女をフェラチオ仮面と呼んで、ぼくは毎週通うことになりました。
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