事件当時は「人気者」だった阿部定

abesada0415.jpg※イメージ画像:『阿部定事件―愛と
性の果てに』
著:伊佐千尋/新風舎

 「阿部定事件」といえば、女性による男性局部切断殺人事件としてあまりに有名だ。昭和11年(1936)5月18日の月曜日、東京・荒川区の待合「満佐喜」で、1週間前から泊まっていた男性の遺体が布団のなかから発見される。死因は絞殺で、しかも刃物のようなもので男性器を根本から切り取られていた。警察は、男性とともに連泊していて、事件発覚の早朝に立ち去った阿部定(31)を犯人と断定し行方を追った。

 殺害されたのは、中野区で料理店を営む男性(42)と判明。妻のいる身で定とかねてから男女の関係にあったことがわかった。

 大手新聞各紙は、「怪奇殺人」「猟奇殺人」などと見出しをつけてこの事件を大きく報じた。当時の事件発覚直後の記事において、警察発表を受けてすでに紙面で「犯人定」などと写真入りで名指しされているなど、現在ではまずありえない点に時代を感じさせる。

 事件発覚から2日後の5月20日夕方5時半過ぎ、定は国電(現・JR)品川駅前の旅館「品川館」に偽名を使って滞在していたところを、警視庁高輪署員によって逮捕された。

 定は19日の夕方5時半頃に品川館を訪れた。その際、従業員たちは「もしや」と怪しんだものの、報道された服装などとは違っていたことや、流暢な関西弁を使っていたことなどから判断できなかったらしい。翌日、刑事が聞き込みに訪れた際にも、何も告げなかったという。

 だが、その1時間後に再び高輪署員が宿帳の確認にやって来た際、一人の従業員が「実は怪しい女性が泊まっておりまして」と告げたため、任意同行して取り調べたところ、定と認めたため逮捕に至った。

 宿泊中の定は、挙動になんら怪しいところもなく、非常に落ち着いていたという。宿泊初日は新聞を読みながら「昨日は大した事件があったんですね」などと仲居さんに話しかけ、夕食にはおでんや刺身をつまみにビールをおいしそうに飲んだという。高輪署員が「警察の者ですが」と声をかけた際にも、「あらそう」と笑って答え、動じることなく同行に応じたと伝えられる。

 そして、肝心の殺害の動機だが、男性を愛するあまり、このまま妻のもとに帰したくないという思いからの犯行だったとも、一説には、セックスの際に定が興奮と快感のあまり男性の首を絞めつけたともいわれている。

 事件については、新聞は連日異例の大きさで報じた。そして定が逮捕されるや、さらに報道は過熱した。たとえば、5月21日付の『報知新聞』は、社会面5段組という異例のスペースで報じた。同日の『東京朝日新聞』11面も、紙面のほとんどを定の逮捕についての記事で占められ、陸軍の航空イベントと大相撲夏場所の記事が片隅は追いやられていた。

abesada041501.jpg※画像:『東京朝日新聞』昭和11年5月21日 阿部定逮捕を報じる記事

 さらに定は犯行後、切断した男性器をハトロン紙に包んでずっと持ち歩いていた。このことについて警察の取り調べに「一番かわいい大事なもの」だから持ち歩いていたと話した。物怖じせずに取り調べに応じる定の様子も盛んに報じられ、新聞は定を「凄い妖婦ぶり」「傍若無人の妖女」などと形容した。

 こうした「不倫相手を殺害し、その性器を切断して持参しながら逃亡、警察に取り調べにも堂々と応じる」などと報じられれば、さぞかし稀代の悪女・毒婦と世間からバッシングされたと推測する向きも多いだろう。たしかに、そうした動きはあったようだ。

 ところが、当時の報道や資料を見ると、この事件は想定外の「経済効果」をもたらし、また意外に定個人を支持する動きすらあったようだ。

 まず、事件の舞台となった待合「満佐喜」や定が滞在した「品川館」は大評判となり、客がどっと押しかけた。満佐喜は事件のあった部屋に定と死んだ男性の写真を飾り、まるで特別室のような扱いにした。普通、殺人事件のあった客室など嫌がられるのが当たり前だが、この時はまったく逆だった。品川館も同様で、定が泊まった部屋を布団や水差しなどそのまま保存し、枕や湯飲みに「お定が使用した」という札までつけて、あたかも「阿部定事件記念館」のような有様だったという。

 こうしたブームになったのも、当時の世相が深く影響している。事件の3カ月前には、陸軍の青年将校による軍事クーデター、いわゆる2.26事件が起きていた。さらに世間では不況で失業や自殺が深刻な社会問題となっており、貧しさのために満足に食事すらとることのできない「欠食児童」が全国で20万人という調査結果も出ていた。

 こうした暗く厳しい世相のなかで、政治や戦争とはまったく関係のない、しかもカネや憎しみではなく「愛欲のための殺人」という事件を、世間は一種のカタルシスをもって迎えたという一面があったようだ。経済学者で日本芸術院院長も勤めた高橋誠一郎氏も、「猟奇事件というよりも、むしろホッとした思いで」連日の報道記事を読んだと発言している。

 その後も、この事件と定はいろいろな小説や劇、映画などに取り上げられた。先日死去した映画監督・大島渚の『愛のコリーダ』は特に有名だ。ほかにも、定をアイドル的にあつかう記事や読み物も登場したらしい。

 その定だが、裁判で懲役6年を言い渡され服役。その4年後には皇紀2600年の恩赦によって減刑を受けて出所した。その後、料亭や旅館などに勤めたり、飲食店を営んだりしたというが、いつしか消息不明。現在も、生死を含めて、詳細についてはまったく明らかにされていない。
(文=橋本玉泉)

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