歴史探訪:日本のアダルトパーソン列伝

【日本のアダルトパーソン列伝】「処女」を最初に論じたのは、性も政治もなめつくした俊才・北村透谷

kitamura0131.jpg※イメージ画像:『北村透谷とは何か』笠間書院

 日本近代文学において恋愛と性を語る上で、詩人で評論家の北村透谷(きたむら・とうこく/1868~94)を見逃すわけにはいかない。

 透谷、本名・北村門太郎は明治元年、相模国小田原唐人町(現・神奈川県小田原市)に生まれた。15歳の時に東京専門学校(現・早稲田大学)政治科に入学し、後に英語科に転じるが中退。20歳の時に日本最初の自由律長詩『楚囚之詩』を自費出版。20歳で結婚。その後、文学における恋愛の重要性を論じた『厭世詩家と女性』や、処女をテーマとした『処女の純潔を論ず』などの評論活動を展開。文学界で注目されるようになるが、1894年5月16日、東京・芝公園の自宅の庭で首をつって自殺した。25歳という若さだった。

 このように書くと、透谷は秀才の文学青年あがりの、恋愛をテーマにした世間知らずの詩人で評論家というイメージになるかもしれない。しかし、実際の透谷はまったく違う、世間の濁流に身を泳がせた、あらゆる現実を経験した文学者だった。

 13歳で小学校を卒業した透谷は、向学心から漢学や洋学を学ぼうと私塾を転々としたり、見聞を広めるためか地方へと単身旅行に出かけたりする。そして社会運動に興味を持ち、すでに小学生の頃から触れていた当時最も過激だった政治運動である自由民権運動にさらに熱中するようになる。その政治的な関心からか、神奈川県議会の臨時書記の仕事をしたりする。そして15歳頃にはすでに民権運動の活動家として活動家たちと交流するようになり、自由党の大物の家にも出入りするまでとなる。

 ところが16歳の時、仲間の活動家たちから「民権運動の活動費獲得のために銀行強盗を実行するから、お前も参加せよ」と誘われ、苦悩の末にこれを断る。仲間から爆弾の運搬などを手伝わされたこともあった透谷だが、この時ばかりは承諾できなかった。以後、政治活動から離れる。あたかも連合赤軍のM作戦を連想させる逸話だが、この後、実行部隊は大阪で逮捕。歴史にいう大阪事件である。

 さらに、透谷が経験したのは政治だけではない。民権運動家たちは、成人男性ばかりである。議論の際には酒も出る。まだ15歳くらいの透谷も、一緒に酒を飲んでは政治や国家を声高に語った。また、16歳頃には八王子の遊郭に足しげく通うようになっていた。ある時、集会に行く前に遊郭に立ち寄り、調子に乗って娼妓のうちかけを羽織って活動家たちの前に出たところ、5歳年上の活動家、大矢正夫から叱責されたこともあるという。

 さらに、民権運動のさなかに知り合った女性は、自由党の大物の娘、すなわち、石坂昌孝の娘ミナ(美那子)であった。透谷はこの石坂ミナと大恋愛の末に20歳で結婚する。このように、透谷は17歳になる前に、政治も酒もセックスも恋愛も、すべて経験していたのである。

kitamura0131_01.jpg透谷が通ったとされる田町遊郭の跡地 現在でもかつての建物が残る

 こうした透谷に比べれば、同じように恋愛をテーマに試作品などを発表していた島崎藤村などは、実際の恋愛やセックスの感触も匂いも、快感も感動も苦悩も知らないままの、童貞の理想主義者に過ぎなかったのである。

 透谷が著述を執筆していた期間は、わずか5年足らずに過ぎない。しかも、そのほとんどは明治24年から26年までの2年半程度の期間に書かれたものである。そのわずかな間に透谷が遺した仕事は、現在、『透谷全集』(岩波書店)全3巻としてまとめられている。透谷の文章は漢文訓読調でやや読みにくいものの、現実を知り尽くした者にしかわからないリアリティが、ひしひしと感じられる。
(文=橋本玉泉)

men's Pick Up