女性目線の童貞喪失:ある男のリアル童貞卒業物語<最終章>

女性目線の童貞喪失:ある男のリアル童貞卒業物語<最終章>の画像1
※イメージ画像:Getty Imagesより

セックス求道者「隔たり」連載:童貞卒業歌<最終章:ロストバージン>

『第1章:前夜』
『第2章:交際1年半の彼女』
『第3章:信頼』
『第4章:曖昧な関係』
『第5章:練習』
『第6章:卒業』


「それ、まじ最悪じゃない?」

「セックスしたいだけじゃんか」

「絶対別れた方がいいよ!」


 大学生のたくさんいる飲み屋はうるさいけど居心地がいい。通っている大学から徒歩で行ける居酒屋に、仲の良い3人の女友達と来た。居酒屋に来るのは久しぶりだった。

 女友達3人はお酒をガブガブ飲んでいる。もうすでにほろ酔い状態だ。シラフの時は人の批判なんてしないのに、酔っているせいか、今日はやたらと切れ味が良い。お酒の飲めない私はウーロン茶を片手に、みんなの話を聞いている。


「でも、あの彼がそんな感じなんて意外だな」

「けっこう優しそうに見えたのにね」

「男なんてみんなやりたいだけじゃん!」


 昨日、「聞いてもらいたい話がある」と私はグループラインに送った。その内容が「彼とのセックスの悩み」だと伝えると、あっという間に集まることが決まった。

 場所はファミレスと考えていたが、「内容が内容だからお酒を飲んで話そう」と言われ、居酒屋になった。性行為の話をするにはお酒が必須なようだ。私はお酒が飲めないけど、断るのが面倒だったので了承した。

 お酒を片手に楽しそうに話す3人を見ていると、ただお酒を飲みたかっただけなのではないかと思えてくる。まるで、誰かの不幸を肴に飲む酒はうまい、というように。

 それでも、急遽3人が集まってくれたのは優しさだと知っている。なんだかんだ、悩みを聞いてくれる味方がいるのは嬉しいものだ。


「ユイはさ、あの彼とけっきょくどうするの?」

「うーん…。たぶん、別れ…ない、と思う」

 

 私には同じ大学に通っている彼氏がいる。付き合って約半年が経った。私は彼のことを、とても優しい人間だと思っている。彼も私のことを「優しいね」とたくさん言ってくれている。

 そんな私たちは最近、セックスに挑戦した。ラブホテルに行ったり、彼の家でも何度かトライした。でも、うまくいかなかった。

 私は「そのうちできればいいや」くらいに思っていたけど、彼はそうではなかったらしい。彼自身は口には出していなかったけど、私には彼のセックスに対する行動の全てが「早く童貞を卒業したい」という風にしか見えなかった。

 私たちは何度も挿入の手前までいき、撃沈した。彼のモノは全く私の中に入らなかった。何度も入らないことが続き、彼がだんだんイライラしているのが伝わって来た。私は申し訳なくなり、そして、恐怖を感じるようになった。セックスに挑戦し始めた頃から、まるで別人と付き合っているような感覚になった。

 入らないし、痛いし、怖い。そこまでしてセックスをする必要が、どこにあるのだろうか?

 私はセックスに疑問を抱き、そして、セックスに挑戦する前の関係に戻りたくなっていた。手を繋いで歩き、ご飯を食べ、他愛もない話をする。そんな穏やかな空間が大好きだったのに。

 その大好きだった空間をセックスが壊した。セックスが壊したのだ。

 私は彼自身が壊したのではない、と思っている。セックスがなければ、穏やかな空間は続いていたはずだから。

 セックスしなければ、元の関係に戻れる。私はそう考えた。

 けっきょく、私は彼に「もうそういうことはしたくない」と伝えた。苦しかった。彼が童貞を卒業したいというのは分かっていたからだ。彼の思い通りに自分が動けないことを申し訳ないと思う。

 しかし、私は私自身を大切にしたい。自分自身を大切にした上で、前のような、セックスの前のような関係に戻りたい。


「ユイ、私たちはあなたのことを思って言ってるの」

「そうよ。ユイにはもっとイイ人がいるよ」

「別れないってさ…それ、本気で言ってるの?」


 彼との出来事を自分だけで抱えきれなくなった私は、3人に全てを話した。アドバイスが欲しいとかではなく、純粋に話を聞いて欲しかった。

 予想に反して、3人のリアクションは過激だった。みな、別れた方がいいと言う。私にはそれが驚きだった。

 確かにセックスの部分だけ切り取れば、別れた方がいいというのも頷ける。しかし、それ以外の部分にも目を向けるべきなのではないか、と私は思う。ご飯を食べ、会話した空間は本物だと信じたい。


「本気で言ってる。…私から別れを言うつもりはない」


 みんなが私を思ってくれているのは十分伝わってくる。だがどうしても、セックスがなければ元に戻れるのではないかと期待してしまう。

 そう、セックスだけが、セックスだけがうまくいかなかったのだ。セックス以外は、本当に楽しいのだ。

 その気持ちを3人に伝えたいのだが、うまく言葉にできない。その優しかった彼の人格ですら、セックスするための計算だったと理解されそうで、嫌だ。

 私の頑固な意志に愛想をつかしたのか、3人はそれぞれの好きな人の話を始めた。ラインの返信が早くて嬉しいだの、授業で近い席に座っただのと、楽しそうに話している。なぜか会話に入ってはいけない気がして、私は席を立ち、トイレへ向かった。

 トイレに入り、携帯を開く。何気なくラインのアプリを押すと、一番上に「隔たり」の名前があった。

 

「いきなりごめん。明日、空いてる? 話したいことがあるんだ」


 この雰囲気は別れ話だろうなと、直感的にそう思った。彼のメッセージにはいつも絵文字が付いていた。この文章には一切絵文字がついていないから、おそらくそういうことなのだろう。

 恋愛って難しい。この状況の場合、被害者は私であるはずだ。痛みを与えられ、怖い思いをした。そんな私は彼を許そうと思っている。

 けれど、加害者である彼が別れ話を持ちかけてきた。セックスしたいと言って、私に怖い思いを与えたのに、自分から別れたいなんて傲慢だなと思う。君を傷つけた罪に耐えられない、とでも言うのだろうか。それとも、大切な人を傷つけてしまった、僕にはもう君を幸せにできないなどと、かわいそうな男を演じるのだろうか。

 そんなことを思いながらも、自分の心が平穏なのに驚いた。遅かれ早かれ、こうなることを予想していたのかもしれない。

 私は「あいてるよ」とだけ返信をして、携帯を閉じた。このラインの内容を話すのは面倒くさくなりそうだから、3人には言わないでおこう。私から3人を呼んだのに、みんなの意見を聞かない私も私だなと、そう思うと、なんだかおかしくなって大声で笑いたい気分になった。


「久しぶり…でもないか」

「全然久しぶりじゃないね」

「そうだよね、ごめん。じゃあ行こうか」


 彼が話し合いの場所に選んだのは、デートの時によく行ったパン屋さんだった。初めてここのパンを食べた時に、彼が「うますぎる!」と感動していたのを思い出す。パンでそんなに感動できるって面白いなと当時は思ったけど、もうあの頃には戻れない。

 パンを何個か選び、それぞれに会計をして、席に座った。パン屋さんで別れ話をされた人っているのだろうか。そんなことを思いながら、パンをほおばる。

 パンを食べている間、彼は一言も言葉を発しなかった。だから、私も何も言わなかった。ただ無心に食べ続け、皿の上にあったパンはあっという間になくなった。

 食べ終わっても、彼は何も言葉を発しない。楽しい思い出が詰まった場所なのに、信じられないほど居心地が悪い。これもセックスのせいだ、と心の中でこっそり恨む。


「あのさ」


 彼はパンのカスが散らばった皿を眺めている。言いづらいことを言う時の声のトーン。目は合わせてくれない。別れ話を面と向かって言うのは辛いだろう。わかっているとはいえ、ちゃんとこっち見てよ、と思う。最後くらい、私の顔を見て欲しい。

 

 セックスをしよう。そう言われたとき、私は純粋に嬉しかった。付き合ってから半年間、彼は全く手を出してこなかった。

 決してセックスをしたいから付き合ったわけじゃない。恋愛の延長線上に結婚があるように、デートの延長線上にセックスがある。ひとつひとつ丁寧に関係性を構築していく感じが、とても嬉しかった。私にとってそれは、私たちの関係性を大切にしてくれているように感じたのだ。

 けれども、セックスにトライするのを1回、2回と重ねて行くうちに、私はだんだん彼に恐怖を抱くようになった。

 勃たないことにイライラし、入らないことに焦り、彼の顔が歪んでいく。ホテルに入る前の、いや、今まで付き合っていた彼はどこにいったのだろう。余裕を持って落ち着いていた彼が、徐々におかしくなっているように見えて、私は怖かった。

 そして何より、セックス中、彼は私のことを見ていなかった。

 彼は私を見ているようで、ずっと私以外の何か別のものを見ているようだった。その視線は、食事中の穏やかなものとは全く違う。彼の目にくっきりと映っていたのは私ではなくて、自分のモノと私のアソコだけだったのだろう。

 そんな彼の変化は普段のデートに現れた。いや、セックスにトライしている間は普段のデートなんて全くしなかった。まるでセックスの部活動。ただセックスを達成するための活動。そこに愛情なんて微塵も感じることはできなかった。

 そんな関係になってしまった中で、唯一、嬉しかった体験があった。彼の家でお泊まりをしたときだ。

 ちょうどその日、私は生理になった。その事実を伝えると、彼は一瞬寂しそうな顔をしたが、


「でも、お泊まりできるだけで嬉しいよ」


 と笑ってくれた。久しぶりの笑顔だった。

 その日の夜、私たちはセックスの手前までした。裸で抱き合ってキスをし、彼は私の胸を、私は彼のモノを触った。肌と肌が触れ合い、心地よい安心感に包まれた。彼の触り方やキスが優しくて、私はとろけそうになった。

 やっぱり彼は優しい。セックスに慣れていないから、焦っていただけなのだろう。本質は変わらない。私はそう思うようにした。

 私の好きな彼が、彼の本質であると、信じるようにしたのだ。

 次の日の夜、初めてといっていいほど、彼とのラインが盛り上がった。

 嬉しくなった私は、


「裸で抱き合うのっていいね」


 と勢いで送ってしまった。恥ずかしかった。でも、それくらい、私は本当に嬉しかった。だた裸で抱きしめ合っている時間に、私は愛情というものをものすごく感じたのだ。

 彼は「挿入」になると焦ってしまう。つまり「挿入」がなければ私たちは幸福を感じることができる。だから、焦って挿入する必要なんてないんだ。あの日、生理だったことが、その事実に気づかせてくれた。

 裸で抱きしめ合いながら、ゆっくりと、徐々に体を慣らしていこう。

 次に会ったとき、彼にそう言おうと決めた。しかし…。

 けっきょく言えなかった。彼の耳にはもう、私の声なんて届かなかった。

 あの日は、平日の夜だった。部屋がとても薄暗くて、不気味だった。

 その空間の中にいたからか、彼は私の知っている彼とはまるで別人に見えた。

 逃げ出したい。そう思ったけど、私の中に彼を傷つけたくない、という想いがあった。その気持ちはまるで、最愛の人が魔法にかけられて野獣になってしまったような、哀れで慈しみの心だった。

 彼は何度か挿入を試みたが、やはり私の中に入ることはなかった、彼の表情はどんどん歪んでいった。私はいてもたってもいられなくなって、


「私は、こうやってくっついてるだけでも嬉しいから」


 と抱きしめた。彼は少し落ち着いたように見えたが、再び表情を歪めて、私のアソコを見てるだけ。

 私は叫びたかった。


私を見て!

アソコばかり見ないで!

ちゃんと私を見て!


 セックスにトライし始めてから、彼はもう、私をセックスの対象としか見ていなかった。それは自分が道具のように扱われた気分だった。

 それでも私は、彼のことを信じたかった。少しでも私のことを見て欲しい。1回でいい、1回でいいんだ。そう思ったけど、彼がそれに応えることはなかった。


 だから、別れ話の時くらい、私のことをちゃんと見て欲しい。

 私が今、あなたに望むことはそれだけだ。

 

「あのさ…別れよう」


 力のない彼の言葉は、パンのカスでいっぱいになった皿の上に落ちた。私には届かない、独り言のような別れの言葉。彼を信じようと思った自分がバカらしくなった。


「ちょっとこれから忙しくなるし…やりたいことも見つかって…」


 彼は別れの言い訳を、ポツリポツリと皿の上に落としていく。私に伝える気のないその言葉。

 どうせなら本音を言って欲しい。


「セックスがうまくできなかったから別れよう」


 という本音を。

 その別れ言葉の方がよっぽどいい。それの方が私は納得できる。よくわからない言い訳など、私にとってはカスでしかない。本音を言ったら私が傷ついてしまうと思っているのだろうか。それはもう、優しさでもなんでもない。

 もう終わりにしよう。

 これまでの様々なこと、全て。


「うん、わかった。別れよう」

「えっ」

「なんとなく、そういう話だと思ったから」

「あ、そっか」

「今までありがとうね」

「うん…こちらこそ」

「それじゃ、帰ろっか」


 私たちはパン屋を出て、改札へ向かう。滞在時間は30分間。たくさんの楽しい思い出が詰まった場所なのに、今日のたった30分間で苦しい思い出に変わってしまった。もうこのパン屋さんに行くことは、一生ないだろう。


「それじゃ、また」

「うん。また」


 また、か。

 確かに私たちは大学が同じで、これから授業でも会うかもしれない。その時、私たちは笑い合って会えるのだろうか。

 恋の終わりは残酷で苦しい。どんなに楽しい思い出があったとしても、別れたという事実によって「相性の合わなかったふたり」になってしまう。そして、いくら付き合う前に仲が良かったとしても、元の関係性に戻ることは少ない。

 私は彼のことが好きだった。何度も言うが、セックスだけがダメだったのだ。それ以外は何の不満もなかった。

 なぜ、恋人たちはセックスするのだろうか。なぜ、付き合ったらセックスをするのだろうか。付き合うということはセックスをするための、ただの切符に過ぎないのか。セックスのせいで別れてしまったと認識すればするほど、セックスが憎くなっていく。

 何で恋愛関係にセックスが組み込まれているのか、今の私にはわからない。ただご飯を食べて、楽しくお話できて、たまにくっつき合うだけじゃダメなのだろうか。なぜ挿入されることを受け入れなきゃいけない。あの忌々しい肉棒よやらを受け入れることが「愛」だなんて狂ってる。

 改札に吸い込まれる彼の背中をじっと見つめる。曲がっていて、頼りなさそうだ。別れた悲しみで曲がっているのでないだろう。これから、どうセックスをすればいいのか。私にはそう見えた。それほど、童貞ということが彼にとってコンプレックスなのだろう。そんな社会的な記号で、私はあなたを見ていないのに。

 彼と同じように改札に飲み込まれていく人たち。男たちの下半身にはあの忌々しいものがついていて、女たちにはそれを受け入れる穴がある。みな何食わぬ顔をして歩いているが、月に何度かはそれらを入れたり受け入れたりしながら、動物みたいな声を上げているのだろう。

 凛々しく歩いているスーツのお兄さんも、綺麗な格好をしたお姉さんも、夜になればベッドの上で踊り狂っているのだ。そう思うと、何だか滑稽に思えて、笑いたくなった。

 そんな私もいつか、けっきょくはそれを体験してしまうのだろう、という理解はある。今はセックスを憎んでいるが、また好きな人ができたら、心を踊らせてセックスしてしまうのかもしれない。もしかしたら、愛情なんてものも感じてしまうのかもしれない。

 その時、私は何を思うのだろうか。

 彼がホームに消えていく最後の瞬間まで、私は彼のことをじっと見つめていた。期待をしていたが、彼は最後まで私の方を振り返ることはなかった。

 それから1年がたち、隔たりと付き合って以来の彼氏ができた。彼は大学の同じゼミに属している同級生だった。

 新しい彼は身長が高く、スタイルが良かった。シャツにチノパンというノーマルな服装に、短髪でメガネをかけている姿が、大きな身長でもどこか可愛らしさを残していた。顔は全くタイプではなかったが、性格にクセのない感じが好印象だった。

 彼とのデートは食事に行ったり、美術館を回ったりと、とても穏やかなものだった。ぽつぽつと会話をして歩き、座って話す。無言の時もたくさんあったが、喋らなくてもいい、という雰囲気は気分を楽にさせた。私は「男」というものを感じない人に安心感を覚えていたようだ。

 全く「男」という印象がない、新しい彼。この人もセックスに興味があるのだろうか?

 ときおり、私はそんなことをぼんやり考えていた。興味がないならないで、不思議だなと思う自分。隔たりと付き合ってから、男は勝手にそういうことがしたいという先入観が生まれていた。

 付き合って半年が過ぎたころ、私は彼と初めて旅行に行った。そして、そこであっけなく処女を捨てた。

 宿泊先のホテルのベッドに入り、私たちはキスをした。彼とのキスは交わるようなものではなく、小鳥が突っつき合うような可愛らしいものだった。

 裸で抱き合いながら全く激しくないキスを繰り返していると、ゆったりと優しくアソコを触られ、何だか毛布に包まれるような暖かい安心感が下半身に広がっていくのを感じているうちに、あっけなく挿入が完了していた。

 若干の痛みは感じたが、耐えられないものではなかった。その後、彼が私の上で動いているのをぼんやり眺めていたら、事が終わっていた。

 彼は疲れたのか、横ですぐに寝息を立て始めた。私は先ほどまで忌々しいと思っていた肉棒が入っていたアソコを触る。どろりとした粘着質を感じ、手を見ると若干赤く染まっていた。処女を捨てたんだな、というのを、その血を見て理解した。

 私はセックスをした。去年、ずっと憎く思っていたセックスを、した。

 セックスって本当にできるんだ。

 初めてのセックスの感想は、たったそれだけだった。

 隔たりとの件から、私は自分に欠陥があるのではないかということを疑っていた。私の入り口は狭い。だから入らない。そのせいで私はセックスができないかもしれない。でも、それでいいと思っていた。

 そんな私の思いに反して、新しい彼のモノはするっと入った。抜いた後、お腹が少しジンジンしたが、耐えられないほどではない。そして、止められないほど興奮するものでもない。ただ、それだけ。

 セックスってこんなものなんだ。

 隔たりはこんなもののために、狂っていたんだ。

 テレビでよくみかける芸能人の不倫や、大学の中で時々聞こえる浮気話。みんな、こんなものをするために危険な橋を渡るのだなと驚き、そしてバカだなと思った。

 その後、彼とは何度かセックスをし、そして付き合って1年が少し過ぎた頃の大学4年生の時に別れた。理由は些細な喧嘩だったけど、こんな些細な喧嘩でもカップルは別れてしまうんだなと、私は再び驚いた。

 私は新しい彼と別れたという事実を、またおなじみの居酒屋で、仲良しの女友達3人に伝えた。


「あんな男、もっと早く別れればよかったのに」

「そうよそうよ。なんか服装とかもダサくない?」

「女に興味ありませーん、みたいな雰囲気、嫌だったよね」


 3人は相変わらず、私の元彼の悪口で盛り上がっていた。3人にとっていい男ってなんなのだろう。そう聞いてみたくなったけど、やめておいた。みんなが元彼を悪くいうのは、私を励ますための善意だと知っているから。


「でもさ、あれで他の女に手を出してんだから笑えるよね」

「そうそう。ユイが傷つくと思って言わないでおいたけど、あいつ浮気してたっぽいよ」

「ねー。だから、あんな男と別れるのは正解だよ!」


 初耳だった。彼が浮気をしていたということは、初めて聞いた。驚いた。そして、何より驚いたのは、私の心は傷ついていないことだ。むしろ、彼も「男」だったのだと、私の仮説は正しかったのだと、その喜びの方が優っていた。


「ユイにはもっといい男がいるよ!」

「うん、ありがとう」


 私のリアクションが思い通りじゃなかったのか、3人は愛想をつかし、それぞれの好きな人の話を始めた。サークルの飲み会で好きな男に介抱してもらいたたくさん飲んでしまっただの、イケメンとバーベキューの班が一緒になったのに料理ができないからどうしようだの、楽しそうに話している。私は席を立ち、トイレへ向かった。

 トイレで何気なくラインのアプリを起動すると、久しぶりの名前が一番上に浮かび上がっていた。


「隔たり」


 私はその名前を押して、メッセージを読む。


「久しぶり。元気かな? よかったら久しぶりに、飯でも行かない?」


 私はそのラインに迷うことなく、


「いいよ」


 とだけ返信した。

 

 新宿東口の改札前。人が多い。多くの男女がせわしなくその場を行き交っている。改札の方を眺めていると、あの頃よりも背筋の伸びた隔たりが改札から出てきた。


「久しぶり。元気だった」

「うん、元気だったよ。隔たりは?」

「めちゃくちゃ元気だったよ。そしたら行こうか」


 彼が選んだのはオムライス屋さんだった。「なんでオムライス屋さんなの?」と理由を聞くと、「ここのオムライス屋さんのパンがうまいんだよ」と彼は笑った。本当にパンが好きなんだなと、微笑ましくなった。

 

「最近どう?」

「どうって?」

「んー例えば、恋愛の話とか。それか就活の話とか」

「なるほどね。うーん。こないだまで彼氏がいたけど、別れた」

「へー。そうなんだ。その…あれはし…」

「隔たりは?」


 彼が何か聞きづらいことを口にするそぶりを見せたので、私はその言葉を遮る。


「…俺も一緒…かな。その…別れたばかりってやつ」

「そうなんだ。どんな人だった?」

「いやいや、そんな話はいいよ。逆にそっちはどうだったんだよ」


 彼は元カノの話をしたくないらしい。私も彼の元カノであるのに。そこに若干の違和感を覚えたが、触れないでおく。


「私のもいいよ。違う話しよう」


 私は彼と恋愛の話をするのが嫌だった。彼が性的なワードを言いそうで怖かった。もしかしたら、彼は私を抱きたくて誘ってきたのではないか。そんな疑念が頭を支配し始める。


「そうだね。違う話をしようか」


 その後、彼は最近読んだ本の話をし始めた。面白かった。彼の説明を聞いて、私はものすごく興味を惹かれていた。帰ったら絶対にアマゾンで買おう。

 やっぱり、私はこういう話が好きなんだ。

 私の反応が嬉しかったのか、彼はずっと本の話をしていた。私も本が好きだったから嬉しかった。私は彼の、こういう一面に惹かれたのだと思い出した。

 彼とのセックスの思い出が、だんだん薄くなっていく。あの好きだった頃の気持ちが、徐々に沸騰していくみたいだ。楽しい。やっぱり、お話することは楽しい。


「ユイと本の話するのめっちゃ楽しいわ。なんだか落ち着く」


 突然呼ばれた”ユイ”という響きに、私は戸惑う。久しぶりに聞いた、彼の声に乗せられた”ユイ”という言葉。付き合っている時、彼はあまり私の名前を呼ばなかった。

 今、私は彼の目に”彼女”ではなく”ユイ”として映っている。

 付き合っているとき、隔たりにとって私はずっと”彼女”でしかなかった。デートしてセックスをするための”彼女”。ユイではなく”彼女”。それが苦しかった。

 新しい彼と付き合った時も、私は”彼女”という存在にしか過ぎなかった。私の代わりはいくらでもいる。ただ彼女が欲しいという男たちに、私の時間や体を提供してあげているという感覚だった。

 ずっと空虚感があった。みんな、恋愛をしたいだけで、私と話したいわけではないと。

 私は今、彼が初めて”ユイ”と認識してくれたような気がした。嬉しかった。認められるということは、本当に嬉しいことだ。

 本の話は弾み、気づけば閉店の時間になった。それぞれに会計を済まし、名残おしく店を出て駅に向かう。時刻は23時。新宿の街はきらびやかな人々で溢れている。

 ふと、歩いている彼の横顔を見た。別れてから2年しか経ってないが、とても大人になったように見える。その表情からは、童貞をコンプレックスに抱え、セックスに狂っていた彼の姿ではなかった。

 

卒業、したんだね。


 私は少しだけ、少しだけ嬉しくなった。あの狂った彼はもういないんだ。そう思うだけで、自分の苦しかった思い出も、セックスへの憎しみも消えていくように感じた。私はセックスに狂った彼以外が好きだった。私の好きな彼が戻ってきたようで、嬉しかった。

 だからといって、また付き合いたいだなんて決して思わない。かつて好きだった男が、ちゃんと歩いて生きている。それを知れただけで、もう十分なのだ。


「あのさ、ユイ」


 彼はふと、足を止めた。


「なに?」


 私が横を向くと、目があった。


「いま思ったんだけどね」


 彼の背後には新宿の煌びやかなネオンが広がっている。


「なに?」


 多様な姿をした人間たちが、彼の背後をせわしなく通り過ぎていく。


「ユイと、ホテル行きたいなって」


 人々が行き交う姿に彼の輪郭が滲んでいく。「隔たり」という名を持った目の前の男は、私の中で”彼”という呼称に代わり、少しの沈黙の後、ただの「人間」となった。

 いまさら、”ユイ”を抱きたいと言っても、遅い。

 悲しくなってしまうほど、遅い。

 私はもう、あなたの”彼女”じゃない。


「帰ろう」


 私はそう微笑み、駅に向かって歩き始めた。彼は何か言ったが、その言葉は新宿の喧騒にかき消される。後ろから付いてくる人間をかつて愛していたという事実は胸にしまい、私は私の場所に戻るために、歩く。

 正直、私は嬉しかった。”ユイ”を抱きたいと思ってくれたことが、何より嬉しかった。

 でも、もう遅い。なにもかも、遅い。私たちは付き合っていない。付き合ってない男とするという価値観は、私の中にないのだ。

 付き合ってもいないのにセックスに誘う男。そんな男は私の中でただの「人間」になってしまう。種を繁栄させるために仕方ないだのと言って女を抱くような、動物に似た「人間」にしか思えなくなってしまう。

 やっと”ユイ”として認識してくれたのに、今度は私が彼を”隔たり”として見ることができなくなってしまった。私たちはどうあがいたって、すれ違ってしまうのかもしれない。


「じゃあ、ここで」


 改札の前で、彼に微笑みかける。彼は「おう」と片手を上げた。先ほどホテルに誘ったことは微塵も感じさせないその姿。彼は彼なりに、私と同じように、私たちの過去と向き合っていたのだろう。彼にとって、私とのセックスだけが、汚点であるから。

 彼はその汚点を、私とセックスすることで解消しようと考えたのだろう。しかし、セックスしたからといって、あの過去が浄化されるとは思わない。私たちはあの過去を受け入れて今後も生きて行くほうが、よっぽど健全に決まっている。


「元気でね…隔たり」


 私は彼の名を呼んだ。もう最後だと思ったから。


「また…いや、うん。会えて嬉しかった」


 彼は「またね」を飲み込み、大きな笑顔を見せた。


「ユイ、ありがとう。バイバイ」


 その笑顔は最大限の作り笑いだと知っている。だって私は、彼と付き合ったことがあるのだから。


「うん。バイバイ」

 

 今でもふと、思うことがある。

 互いがセックスの経験がある状態で付き合っていたらどうなっていたのだろうか、と。私が処女でなく、彼が童貞でなかったら、私たちは幸せに付き合えていたのだろうか。

 なぜ「童貞」「処女」という呼び名があるのだろう。そしてなぜ、セックスを経験した人間には、それを現す呼び名がないのだろう。多数派だから、普通だから、それを表す呼び名はいらないとでも言うのだろうか。そのせいで、「童貞」「処女」という呼び名のある方がおかしく扱われてしまう。

 そのおかしさに振り回された彼は童貞を卒業したいと願い、結果、セックスに振り回された。「童貞」という社会から与えられた属性さえなければ、彼は彼のタイミングでセックスと向き合えたのではないか。

 けっきょく私たちは、セックスとどう向き合えばよかったのだろう。彼の悩みを共有して、一緒に乗り越えようと力を合わせれば、乗り越えることができたものなのだろうか。

 私はセックスがわからない。セックスを経験してなお、わからない。そして、知りたいとも、知りたくないと思っていない。そもそも、セックスってそんなに大事なことだろうか、とずっと変わらずに思っている。

 お酒を飲める人は楽しめばいいし、飲めない人は飲めないなりに楽しめばいい。セックスもそれと同じだ。セックスなんて好きな人がすればいいし、好きじゃない人はしなければいいのだ。どっちが良いとか悪いとかはない。人生の楽しみ方、強いて言うなら時間の使い方が違うだけだ。

 今後、私は好きな人ができればセックスしたいと思うかもしれない。寂しい夜は温もりが欲しくなるかもしれない。子供が欲しくて、計画的にするかもしれない。でもそれだけのことだ。目的のために遂行するだけ。別に楽しむ必要はない。私にとってセックスは、それくらいがちょうどいい。

 そう思うと少し、気が楽になった。世の中の価値観に振り回される必要なんてないのだ。

 

 後日、彼にオススメされた本を読んだ。面白かった。思わず彼に、感想を送った。


「オススメしてくれた本、めっちゃ面白かった!」


 するとすぐに既読がついて、返信がきた。


「それは良かった! どこらへんが面白かった?」


 私はすぐさま「感想を直接話したいから会いたい」と文字を打つ。そして送信ボタンを押そうとしたところで、指が止まった。

 今、私は彼に会いたいと思った。でも会ってしまったら、セックスを誘われてしまうかもしれない。

 私はラインを消して、今度、長文で感想を送ろうと決めた。無理して会う必要はないのだ。私は彼と言葉を交わすのが好きなだけなのだから。それは直接会わなくても出来る。

 セックスで愛情を伝え合うように、言葉でもそれぞれの思いは伝わるはずだ。付き合っていなくても、いや、付き合っていないからこそ、私は私の好きな彼の一部分と私なりに接していけばいい。

 セックスを介した彼は苦手だが、彼との話は好きだ。その部分だけを私は大切にしていこう。

 それと同じように、いつか私の前にも「この人とのセックスが好きだ」という人が現れるはずだ。だから私は、その人とのセックスだけを愛していけばいいと思う。

 私はセックスがわからない。だって、答えなんてないから。ないからこそ、私なりのセックス観を持つことができる。そのセックス観が、最終的に私を幸せにすればいい。

 

私が受け入れたいものだけ、受け入れよう。

 携帯を閉じて、ベッドに寝転がり、目を瞑る。

 私に触れる隔たりが、暗闇の中で浮かび上がる。

 強く目を閉じると、隔たりの顔は、まだ出会ったことのない誰かの顔に。

 私は下半身に手を伸ばし、股の間に添える。

 指先に少し、温かみを感じる。

 怯えながらも、下着の中に手を忍び込ませ、もう一度指先を伸ばす。

 ゆっくりと踏切が降りるように指を下ろすと、熱に触れた。

 もう一歩、押す。

 クチュ、と音がなる。

 ヌメヌメとしたものが指を包む。

 その液体は自分の体から出ているものと知りながらも、なぜだか不思議と嫌な気分はしない。

 私はもう一歩奥に、指先を押し込む。

 隔たりを拒んだアソコは、何事もなく、私の指を受け入れた。

童貞卒業歌・完

(文=隔たり)

men's Pick Up

人気コンテンツ関連トピック