昭和14年といえば、日中戦争開始から2年目、前年には国家総動員法が発布され、この年から大学での軍事教練が必修科目になり、外国でもヒトラー率いるナチ・ドイツ軍が周辺諸国に侵攻するなど、国内外で戦時色がますます強くなりつつある時期だった。
歴史上の人物ヒトラーもここではタイムリーな政治家だ
この時、文部省(現・文部科学省)も学生や生徒に対して実施した策のなかに「教科書からの恋愛論の一掃」というものがある。
これは「学生思想の健全化を図るため」という名目で行われたもので、対象は高校(旧制)および大学予科。これらの学校で使用する語学教科書から恋愛をテーマにした作品を削除し、以後の掲載を規制するという内容で、15年4月から実施すると文部省から各学校に通達された。
では、実際に学生や生徒たちにふさわしくないとされた作品は何かというと、英語の教科書ではイギリスの小説家トーマス・ハーディの『テス』をはじめ、同じくJ・ゴールズワージーやA・ハックスレー、ジェイムズ・ジョイスなど。ドイツ語教科書ではA・シュニッツラーやH・V・クライストなどの作品が槍玉に挙げられた。
文部省の考えとしては、“緊迫した国内外の情勢に対し、生徒たちや学生たちが愛だの恋だのとは教育上よろしくない”とのことだそうだ。しかし、そうした時期に「恋愛なんてイケマセン」と上から目線で押し付けることのほうが、国内外の緊迫した非常時であっても、霞ヶ関の高級官僚たちはその程度の意識とオツムしか持ちえていないということではなかろうか。
この年にはほかにも、映画『紫式部』が時局にふさわしくないシーンが多いという理由から4割がカットされて上映され、興行的に大失敗するという出来事や、商店等のネオン(イルミネーション)禁止、お中元やお歳暮の贈答禁止、学生の長髪禁止、パーマ禁止など、市民生活がどんどん窮屈な状況に追いやられていった。そんな精神的な余裕をそぎ落とすような政策で、はたして国民の意識が高まり、士気が高揚したのであろうか。
ともかく、「非常時にはストイックであるほうがよい」といった、何ら根拠のないエセ宗教まがいの感覚は、現在でも霞ヶ関や東京都庁あたりで亡霊のように漂っていることだけは間違いない。
(文=橋本玉泉)