樹まり子というAV女優の存在を知ったのは、1989年の8月。サンフランシスコの安ホテルだった。僕は約2年間専属ディレクターとして勤めた芳友舎(現h.m.p)を辞め、忙しくて使う暇が無く銀行口座に貯まる一方だったギャラを掴み、アメリカを放浪していた。グレイハウンドバスに乗り、ロサンジェルスからソルトレイクシティ、シカゴ、ニューヨーク。そこから飛行機に乗り、カンザスシティ経由で再び西海岸に戻った。
サンフランシスコ、ダウンタウンの東に長期滞在出来る安い宿を見つけ、そこにしばらく腰を落ち着けた。当時からAV監督を辞めたら物書きになりたいと密かに考えていた僕は、それまでの旅の記録を書きとめておこうと考えた。東京のエロ本出版社に勤める友人に住所を知らせたら、彼が編集するAV情報誌最新号を送ってくれた。その巻頭グラビアに、樹まり子はいた。黒いガーターベルトを身につけパンティは無し。憂いを秘めた表情で振り向きカメラを見つめる、そんな写真がひときわ眼を惹いた。
鼻筋の通った、典型的な細面の美人顔。しかもそのヒップはムッチリと肉厚で、成熟した女の匂いを、見る者が圧倒されるほどに放っていた。
「時代が変わった。この女の子の登場によって、アダルトビデオというものは完全に変わった──」、そう直感した。
記事には、僕の同僚だった神野龍太郎が監督した『その女、変態につき』(芳友舎)が紹介されており、樹まり子はその中でアナルファックをし、さらに怪優・山本竜二は彼女のアヌスに指を入れ、あろうことか排泄物を掻き出し口に含んだ、とある。半年、いやほんの3カ月前、僕が日本を離れるまでは考えられなかったことが、そこでは起きていた。
説明してみよう。1986年まで、アダルトビデオというものは基本的に美少女たちによるものだった。美少女とは何か? それは麦わら帽子を被って夏物のワンピースに身を包み、少年たちの心をときめかせる謎めいた存在だ。「エッチのことはまだ良く判らないの」と言い、「でも、貴方にならあげてもいいわ」と身を任せる清らかな存在。そんな彼女たちが見せるソフトな疑似セックス、それこそがAVだった。そう、ほとんどの場合彼女たちは本番はせず、男優たちがそれらしく腰を合わせ、結合部は今では笑い話になりそうな程、大きなモザイクに隠されていた。
しかし86年、突如現れた一人の女の存在が変える。いや、一組の男女がというべきか。帝王、村西とおる監督による『SMっぽいの好き』(クリスタル映像)に出演した黒木香。艶のある黒髪で「ございます」という古風な言葉を使う彼女は、自分に強い性欲があることを一切隠すことをしなかった。それは、彼女が淑女のたしなみである「腋毛の処理」をしていなかったことにも象徴された。黒木香はセックスが恥ずかしいことだとも、それによって未熟な少年たちが「引く」ことも気にしなかった。彼女にとって大切なのは女としての欲望、ただそれだけだった。
そして翌年、咲田葵が登場する。当時『いんらん』というシリーズを撮っていた巨匠・代々木忠は、彼女の性欲は単なる「淫乱」を超えた「パフォーマンス」だと捉え、新しい『いんらんパフォーマンス』シリーズを始動。そして咲田を追うように豊丸がデビュー。監督も先に挙げた神野龍太郎、鬼沢修二らが、ドラマ物が主流だったAV界にライヴ感覚溢れるドキュメントSEXを展開。また、「豊丸」というネーミングが売れたとなれば、それに続けとばかりに沙也加、千代君、亜里沙といった名の女優がデビュー。此処にいわゆる〈淫乱ブーム〉が確立する。
しかし、当時その渦中でAV監督をやっていた者として書き残しておきたいのは、ブームはAVメーカーとプロダクションによる「駆け引き」と「大人の事情」によって生まれたということだ。何故なら〈淫乱ブーム〉が始まっても決して〈美少女AV〉が消えることなく、例えば87年宇宙企画からはかわいさとみが、翌88年には斉藤唯、前原祐子、東清美といったアイドルたちが大活躍する。
アイドル美少女の一社独占を避けるため、大手メーカーは談合策としての五社協定を結び牽制し合うようになる。一方手持ちの女優をさらに高く多く売りたいプロダクションは、例えば「アイドルAを撮らせるから、その代わり売れてない女優B、C、Dをグロスで撮ってくれ」とメーカーに持ちかける。芸能界ではよく使われる、いわゆる「バーター」である。
黒木・村西コンビがテレビに露出し、AVという存在が一般化するにつれ、プロダクションにはAV女優予備軍が溢れた。けれど当然、すべての女の子が美少女もしくは巨乳でもない。当然仕事にあぶれる娘も多かった。そこに起きた〈淫乱ブーム〉は、まさにプロダクションにもメーカーにとっても渡りに船だった。「売れない女にはすべて〈淫乱〉というレッテルを貼り付けてしまえ」、女の子たちに対しては、「お前ら容姿に恵まれてない女は、本番でも3PでもSMでもスカトロでもやりやがれ」というわけだ。そんな流れに、折からのバブル景気が拍車をかけた。
実は、樹まり子もそんな混沌の中からひっそりと現れた、無名のAV女優の一人だった。「F」という、B級C級の企画女優を数多く抱えたプロダクションに所属していた。「F」はそのようにアイドルを持っていなかったので、大手メーカーから相手にされなかった。邪険にされていたと言っても良い。デビュー前の樹まり子も大手五社を中心に面接に廻ったものの、一切採用されなかったと聞く。何故なら今もそうだが、AVの世界はカテゴライズされない女優を嫌う。つまり「淫乱派」にも「美少女」にも入らない彼女は、「売りにくい」と判断されたのだ。
唯一受け入れたのが村西とおるがクリスタル映像を突然飛び出し、新たに立ち上げたダイヤモンド映像だった。「無名監督がTVに露出し成り上がった」と、老舗メーカーから疎外されていた村西ダイヤモンドはメジャープロダクションの接触を断たれ、同時に爆発的にリリース本数を増やしていたから、慢性的な女優不足に喘いでいた。故に「F」所属の、その新人女優を採用する。デビュー作は『素晴らしき日曜日』。芸名は青木さえ子。監督は男優としてセクハラ大魔王と呼ばれていた清水大敬、その第一作であった。
以降、彼女は青木さえ子名義で『快楽天国』(アイビック)、『猥褻淑女ビーナスの雫』(アニー)、樹まり子と名を変え『平成名物ビデオ・イカ女スケ天国』(現代映像)、『若妻プレイ~叫びと悦楽』(シェール)と中小メーカーより次々と作品をリリース(この間、おそらく2カ月も無いと思われるハイペースである)。そしていよいよ、満を持してのメジャーメーカー、VIPより『天下御免5』が発売される。
さて、いささか前置きばかりに終始してしまったことをお許し願いたい。リリースから20年余、それだけ多くの水が橋の下を流れたということだ。これに続いたのが本作『レイプ狂い5・感染~樹まり子』である。おそらく水面下でグツグツと煮えたぎっていた彼女の人気が、いよいよ沸点に到達しようとする、まさに直前の作品であろう。監督の山田風゜助は、良く言えば手堅いプログラムピクチャーを撮る人であり、悪く言えば面白味の無いステレオタイプなAVドラマを量産すると批判されることも多かった。しかしながら樹まり子はそんな内容など意に介さず、全編圧倒的なフェロモンを爆発させている。
物語は山あいのペンションに一人旅にやって来た、女子大生かOL風のまり子。橘直樹演じる若い宿の主人は、どうやらそんな女性客を食い物にしているらしく、従業員の永沢修自とダンク松本にレイプするよう命じる。男優3人が揃いも揃って不必要に日焼けした肌、刈り上げた髪と首にはペンダントという姿に笑ってしまうが、まり子も襲われると、さしたる抵抗もせずに犯され、さらにはレイプされながらも自らフェラチオしてしまうというイージーな展開。
けれど此処には、そんなAV的御都合主義を吹き飛ばして余りある、樹まり子という女優、いや牝の華麗なる存在感がある。冒頭、ピッチリとしたブラックのホディコン姿で現れるところから画面を支配し、永沢と松本から交互に犯され、2発連続で顔面発射されたザーメンまみれの表情は菩薩の如く美しい。翌朝、橘から「君のことはボクが守る」と歯の浮く台詞で騙され、甘いキスからセックスへと展開するのだが、朝の自然光に写し出されるまり子20歳の肌は、まさに神々しいの一語である。その後は如何にも山田風゜助らしいコミカルな展開にもなるのだが、それはネタばらしになるので言及は避けることにしよう。
樹まり子はこの後1990年、たった2年にも満たない活動期間でAVを引退。92年「樹マリ子」と改名し、復活するものの、94年『ファイナルVIDEO美巨乳FUCK』(笠倉出版)で活動を完全に休止した。その間、男優・加藤鷹と同棲。結婚も噂されたが破局したと聞く。そして2010年の現在、1970年生まれの樹まり子はちょうど四十路を迎えている。この「熟女AVブーム」の昨今、例え寄る年波でどのようにボディラインが衰えていようとも、彼女が復活すれば再びドル箱スターになるのは間違いない。けれどその噂すら流れないということは、幸せな家庭に収まっているか、あるいは持ち前のバイタリティを以て、充実した仕事に生きているのだろう。
(文=東良美季)
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成人映画も含め、月5本のハイペースで作品リリースした計算に