消えたアダルトカルチャー残像

全盛期には1000軒超え! 「ノーパン喫茶」とはなんだったのか?

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 80年代初頭に一世を風靡したアダルトな業態のひとつが、「ノーパン喫茶」だった。その起源については福岡説や大阪説などがあるものの、1978年10月、京都にオープンした「ジャーニー」というノーパン喫茶がその元祖と言われている。

 ただし、この「ジャーニー」はアダルト的な要素は希薄で、ウエイトレスもごく普通のスーツにストッキングという服装。ややうろ覚えではあるが、同店の女性オーナーも、特に男性向け嗜好を意識したわけではないとコメントしていたように記憶している。

 一方、ノーパン喫茶の話題は各地に広がり、翌年の79年には札幌のススキノにも開店し、話題になっていたと広岡敬一著『戦後性風俗大系』で紹介されている。

 しかし、それでもまだこの頃は単に「ノーパンの女性が飲み物を運ぶ」というだけで、特に変わったサービスがあるわけでもなかった。料金も、一般の喫茶店がコーヒー1杯280円前後だったのに対し、ノーパン喫茶では500円と、やや高めという程度だった。

 やがて、1980年6月に京都で「モンローウォーク」がオープンするや、さらにブームは加熱する。そして、その年の夏から秋にかけて大阪、年末には東京にも登場する。すると、たちまちサービス競争が激化。当初の単なる「ウエイトレスがノーパン」というおとなしいものでは飽き足らず、過激なサービスへと急速に傾斜していく。

 その急先鋒が、80年12月に大阪は阿倍野に開店したノーパン喫茶「あべのスキャンダル」であった。

 その内容は、喫茶店というよりはショーパブのようなものだった。女性の「制服」も、ミニスカートに始まり、上はトップレスでエプロン。さらには「前張りだけ」という、ほとんど全裸のウエイトレスまで登場した。しかも、単に飲み物を運ぶだけでなく、ストリップ現業でおなじみの芸を披露するショータイム、たとえば店内で女性が股間に吹き矢を挟み、膣圧で矢を飛ばして風船を割ったりするパフォーマンスまで登場した。

 こうした過激な内容に、コーヒーなどの飲み物が1杯1,500円前後という高い料金にもかかわらず、夕方ともなると男性客が殺到。6時を過ぎる頃には、100席ある店内はすべて埋め尽くされたという。男性客の中には、何とか女性の局部をのぞき見ようと、わざと小銭を床に落としたり、コーヒー1杯で何時間も粘ったりするケースも珍しくなかったという。

 当時、同店のオーナーだった有田光昭氏は、「せいぜい1日30万円くらいの売り上げを予想していた」というが、実際には200万円以上だったとのこと。まさに想定外のヒットである。

 81年3月頃になると、ノーパン喫茶は大阪だけで200軒を超え、都内にも約180軒が営業していたというから、その勢いはすさまじいものがある。さらに、一説にはその年5月のGW前には、ノーパン喫茶は全国で1000軒を超えたとも言われている。

 サービス競争にも拍車がかかり、床をガラス張りにするなど、わざと女性の局部を見えやすいような工夫をする店が続出した。

 こうした過熱するサービスに、当局も取り締まり強化に動き出す。そして82年2月には東京の築地署が公然わいせつの現行犯でノーパン喫茶の経営者を逮捕。大阪府警も取締本部を設置する。

 こうした動きを受け、ブームは急速に沈静化し、86年頃にはほとんどのノーパン喫茶が姿を消してしまう。

 その後95年に、東京・歌舞伎町のはずれ、明治通り近くに「ヴーケ」というノーパン喫茶が復活したが、これもほどなく閉鎖。現在では、その面影すら見当たらない。
(文=橋本玉泉)

 

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ノーパン喫茶 スーパーリアルモザイク

 
リアルモザイク=モロ見え!?

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