「英雄色を好む」とはいうものの、なかには常人には理解しがたい、とんでもない性癖を持った偉人もいた。そんな現代ではとても考えられない、偉人たちのセックス事情を追っていこう。
<ナポレオン>妻に「風呂には入るな」という手紙を送ったナポレオン
革命期フランスの英雄、ナポレオン・ポナパルト(1769~1821)は、遠征から帰る際、愛妻ジョセフィーヌに「今から帰る。風呂には入るな」という手紙を送ったことがある。これは彼が極度の臭いフェチで、戻ったあとに妻の臭いをじっくり堪能しようと考えていたのだ。また、寝ているナポレオンの鼻先にチーズを持っていったところ、彼はチーズの臭いをアソコの臭いと勘違いしたのか、「もう勘弁してくれ、ジョセフィーヌ」と意味不明な寝言を発していたという。
そんなナポレオン、さすが英雄だけあって愛人を多く抱えていたが、それ以上に多くの仕事を抱えていた。そこで、愛人には全裸でベッドの中でスタンバイしてもらい、仕事が終わったらすぐにベッドインできるよう、家臣に手配してもらっていた。とはいえナポレオンは朝まで仕事をし続けて現れないケースも多く、そのまま待ちくたびれて寝てしまう愛人も少なくなかったそうだ。
<エカテリーナ2世>気に入った男を次々と喰い漁ったロシアの女帝
ロマノフ朝の第8代皇帝で、34年もの間、女王として君臨したエカテリーナ2世(1729~1796)。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナにまで広げた実力者で、豪放磊落を好んだが、彼女の絶倫ぶりも相当なものだった。
自分好みの男性が宮中に現れると、性格や教養、さらにはセックスのテクニックやイチモツのサイズまで調べさせて、その条件をクリアした男が女王の愛人となった。女帝は60歳になるまで、このやり方で夜ごと人を変えて男を喰い漁り、数百人もの男と関係を持ったという。60歳を過ぎても、彼女の性欲は衰えることなく、なんと22歳のイケメン近衛兵を寵愛していた。愛人の中には、女帝の寵愛をいいことに権力を持った人物も少なくなかったが、女帝の”営み”が激しすぎるせいか、ほとんどが女帝よりも早く死んでしまっている。
このように、公私共に栄華を極めたエカテリーナ2世だが、あまりに奔放すぎたため、孫のニコライ1世からは「玉座の上の娼婦」と酷評されている。
<小林一茶>50代で一晩5回! 超絶倫がたたって妻が早死に!?
「おらが春」などで知られる俳人の小林一茶は、肖像画や作品などから素朴なイメージがあるが、実はとんでもない絶倫男だった。
一茶は52歳の時、28歳の女性と結婚した。筆まめな人物だったが、何とセックスの回数も「○月○日、晴。四交」と、自分の日記に書き記していた(「交」はセックスの意味)。三交、四交は当たり前で、ときには日記に「五交」と書かれた日もあった。これだけ毎日たくさんヤッていたこともあり、夫婦は4人の子宝に恵まれたものの、セックスのやりすぎがたたったのか、妻はまもなく衰弱死してしまう。その後、一茶は38歳の女性と再婚したものの、彼の絶倫ぶりに嫌気がさしたのか、わずか半年で離婚。そして、64歳で32歳の女性と3度目の結婚をした。
なぜ一茶は、こんなにも絶倫だったのか? その秘密は、彼の好物にある。彼は山芋を好んで食べていたが、山芋は精力がつく食材として知られている。さらに、一茶は52歳まで独身(童貞?)だったため、今まで溜めていたものが、一気に”爆発”したのかもしれない……。
日本の”暴れん坊将軍”も負けてません。