国民的トルコ風呂の時代 ~ニッポンの風俗史・戦後#6~

 吉原で2軒目のトルコ風呂「山陽」が開店した当時、従業員のミス・トルコは約40名いたが、赤線出身者は前述の理由で採用されなかった。旧赤線街ということもあり、特に吉原は厳重監視されていたようだ。

 しかしこの頃、オスペ(手コキ)のサービスは全国のトルコ風呂に広がっていて、すでに客の目的は”風呂”から”発射”に変わりつつあった。ニッポンにおけるトルコ風呂の役割は、この時点でほぼ確定しつつあったのだ。

 オスペが規定の裏サービスになると、次に現れたのは「ダブルスペシャル」だった。”ダブル”や”ダブスペ”と呼ばれる裏サービスは、客も女のコも相互おさわりが可能というものである。

 当時のトルコ風呂は、女性が男性の身体を洗ったりマッサージすることが本来のサービスであるがゆえに、女性が男性をさわることはあっても、男性が女性をさわることはなかった。

 それなのに、相互に乳繰りあえるとあらば、もはや洗体やマッサージは二の次。女性の滑らかな柔肌の感触に、岩戸景気の高度経済成長を支える工員やサラリーマンたちは、さぞや興奮しただろう。

 手コキ、相互おさわりが可能になると次は果たしてどんな裏サービスが現れるのか? 興味津々のトルコ風呂は、いよいよ風俗産業への階段を登り始めていた。

 ダブルのあとに続いて出たサービス、それはフェラチオだった。社会評論家の岩永文夫氏によると、「プロの女性がフェラチオをすることは、それまでの遊郭や赤線では考えられないっことだった」ということらしい。

 果たして、そのハードルを飛び越えさせたのは、「風呂」という清潔さなのか、それとも急増するライバル店やミス・トルコを出し抜くための”秘策”だったのか…。

 こうして、売春が法律によって禁止された後のトルコ風呂のサービスは、国や経営者の意に反してどんどん過激になっていった。売防法施行のその年、都内で同法違反で検挙されたトルコ風呂は9軒だった。

 少ないように思えるが、総数33軒なので、もはや三分の一の店で違法サービスが行われる時代になっていたのだ。

 

風俗の歴史は繰り返される


 東京タワーはすでに東京のシンボルとして夜空に輝き、3年後には東京オリンピック開催という昭和36年。東京・吉原では、また新たなトルコ風呂のサービスが話題となっていた。それはトルコ風呂「吾妻」のアズマ嬢が考案した、イス洗いの原型となる遊び方だった。


「風呂場で木製のイスに湯船を背もたれにして座らされると、全裸になったアズマ嬢は、向かい合わせで太ももに跨り、オイルを垂らした乳房と下腹部を、私の胸に円を描くように腰をクネらせながら擦り付けるんです。ある時は、そのまま股間に突入してしまいそうな危うさも。アズマ嬢は、男性自身を擦って快楽に導いてくれた…」


 風俗ジャーナリストの広岡啓一氏は、初めてのイス洗い体験をこう表現している。

 当時、ミス・トルコたちは「トルコ着」と呼ばれる白い半袖ショートパンツ姿だったり、柄物のブラウスとショートパンツを身につけてサービスしていた。

 オスペ時代も着衣に変わりはなかったようで、だとすると、全裸サービスが始まったのはおそらくダブルスペシャルやイス洗いが登場してからではないだろうか。今では風俗なら全裸は当たり前だが、当時はそれすらハードルは高かった…。

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