戦争が日本を豊かにした皮肉と新しい潮流 〜ニッポンの風俗史・戦後#4〜

電話の普及と休戦協定がもたらした新たな風俗


 そしてこの頃、パンパンに代わる新しい風俗が現れた。それが「パンマ」である。「パンマ」は「パンパン」と「あん摩」を合わせた造語で、あん摩を装ったパンパンという意味だ。

 パンマが流行った背景にあるのは、電話の普及だった。この頃、企業や店舗に電話が広まったことで、ホテルや旅館にマッサージを呼べるようになった。それをうまく利用した売春が「パンマ」だった。世の中のインフラが整備されていくと、それを使った風俗が登場するのは世の常と言える。


昭和26年(1951) 日本初のトルコ風呂開業


 またこの頃、東京・銀座(現GINZA SIX裏)に新しい娯楽の潮流が生まれた。日本初のトルコ風呂である。『東京温泉』は、軍属で右翼でもあった許斐氏利(このみ・うじとし)が上海にいたころ、近くにあったトルコ風呂のシステムを日本に持って来たものだと言われている。

 当時のトルコ風呂には性的なサービスはなく、「ミス・トルコ」と呼ばれる半袖、ショートパンツ姿の女性が、トルコにある公衆浴場「ハマム」のように、アカスリやマッサージをしてくれるという、いわばヘルスセンターだった。

 たったそれだけのサービスでも、トルコ風呂はまたたく間に人気となり、政財界はもちろん、多くの有名人も通ったと言われている。ちなみに、国家公務員の初任給が約5000円の時代に、東京温泉の個室利用料は1200円と、現在よりもかなり高級な娯楽だった。

 同じビル内にはレストランやバー、キャバレーなども入っていて、トルコ風呂で汗を流したあと、バーやキャバレーで飲むお酒はさぞや美味かったに違いない。

 東京温泉のヒットにあやかろうと、翌年には博多に『温泉トルコ』が、札幌には『ススキノ・トルコセンター』が開業。京都の花街・島原にも『京都トルコ温泉』が開業し、トルコ風呂は瞬く間に日本各地に広まっていった。昭和28年時点で都内のトルコ風呂軒数は20軒、全国では70軒になっていた。

 

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 トルコ風呂が全国に広まるその過程で、個室に全裸の男性と半裸の女性がいることから、過激なサービスをする店が現れ始めた。次第に性風俗色が濃くなっていったのだ。そこで誕生したスペシャルサービスが「オスぺ」だった。

 果たして「オスぺ」とはなにか? 文字からして「オ●●コスペシャル?」と思ってしまいそうだが、今でいう手コキのこと。今、ソープランドで手コキされても、喜ぶのは一部のマニアだけだろう。しかし、当時はそれだけでも、豚の悲鳴のようなアエギ声を押し殺さなくてはならないほど、感動的なサービスだったに違いない(笑)。

 しかし、トルコ風呂経営者の中には、店が風俗化していくことに危惧を抱く者も多く、オスぺの排除には非常に真剣に取り組んでいたようだ。

 ちなみに、東京温泉がソープランドの元祖と書いてある文献もあるが、同店では性的なサービスは行っていなかったとされる。その後、東京温泉は温泉レジャー施設として平成5年まで営業し、閉店後は多目的ビルへと建て替えられている。

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