アダルトパーソン列伝

長年人類の敵だった梅毒を根治させる薬を発見した男・秦佐八郎

※イメージ画像:『江戸の性病―梅毒流行事情』著:苅谷春郎/三一書房

 『梅毒』は15世紀にヨーロッパで流行して以来、死の病として恐れられていた。この病原体トレポネーマ・パリドゥムによる感染症は、自然治癒は不可能で、感染したまま放置すれば病巣は全身に広がり、脳や脊髄、内臓、皮膚、血管、神経、骨に至るまであらゆる箇所が侵され、最期には死亡する恐ろしい感染症である。そして、かつては梅毒についての効果的な治療法がひとつも無かったことも、さらにその恐怖を増大させていた。

 しかし、梅毒の流行から400年以上を経た明治43年(1910)、ついにその特効薬が完成する。その薬とは『サルバルサン606』。その開発者は、ドイツの科学者パウル・エールリッヒと日本の細菌学者である秦佐八郎(1873~1938)だった。

 秦は島根県美濃郡都茂村(現・益田市)出身。第三高等中学校医学部(現・岡山大学医学部)を卒業後、兵役や病院助手を経て明治31年(1898)に伝染病研究所(後に国立。現・東大医科学研究所)に入所。北里柴三郎に師事し、ペストの研究を手がける。明治36年からは国立血清薬院部長を兼任し、日露戦争での軍医などを経て、明治38には再び伝染病研究所に戻った。

 これらの業績から、明治40年からドイツ留学。当時のトップクラスであるコッホ細菌研究所でアウグスト・ワッセルマン(梅毒血清診断「ワッセルマン反応」の考案者)に学んだ後、モアビット市立病院に移籍。ここで国立実験治療研究所のエールリッヒ所長を紹介され、フランクフルトの同研究所に移った。

 以後、エールリッヒは秦とともに、梅毒化学療法の研究に取り掛かる。そして明治42年(1909)6月。秦は動物実験を繰り返した結果、ヒ素製剤606号が梅毒病原体トレポネーマに有効に作用することを確認。これが世界初の梅毒の特効薬、サルバルサン606である。この606とは試作品606号という意味である。

 「梅毒に実証的な効果がある医薬品の開発」というニュースは、全世界を駆け巡った。同時に、日本の官費留学生に過ぎなかった秦の名前も、ヨーロッパ全土に知れ渡ったのである。

 明治43年(1910)5月、ドイツを出て帰国の途につく。その途中、秦はロシアのモスクワに立ち寄った。そして、駅のホームで列車を待っているのがサルバルサンを開発した秦だと知れると、たちまち人だかりとなった。人類長年の敵だった梅毒を根治させる薬を発見した偉大な医学者に、人々はこぞって握手を求めたという。なかには病人を担いできて、「秦先生、コイツを診断してください」と頼む者までいたという。

 さらに当時のロシアの新聞も、秦の業績を絶賛していた。日露戦争終結からわずか5年。ロシアにとっては日本人といえば憎き宿敵のはずである。それでも、ロシア国民とメディアは、秦の研究に拍手喝采したのである。それほど、梅毒治療薬発見という成果は、価値あるものとして理解されたのであろう。

 ところが、ロシアを出て秦が日本に帰国した際には、『朝日』『毎日』などの国内メディアは記事にすることもなく、話題になることもなかったという。

 もっとも、優れた業績で世界的に認められながら、日本ではさっぱり話題にならない優秀な人物というのはいくらでもいる。その反対に、たいした才能も業績も見当たらないのに、妙にマスコミ受けがよい、あるいは知名度ばかりが高いためにメディアに頻繁に登場し、優秀な人物と勘違いされている者が少なくないのは、現在でも変わっていない。

 さて、人類待望の特効薬サルバルサンだが、まれに重大な副作用が現れることと、その後、さらに感染症等に有効な、ペニシリンに代表される抗生物質が普及したことで、現在では医薬品として使用されることはなくなった。

 しかし、それでも秦佐八郎博士の業績を讃える声は、現在でも続いている。社団法人日本化学療法学会では「志賀 潔・秦 佐八郎記念賞」を設けている。また、秦の出身地である島根県益田市美都町には設立された秦記念館には、秦の経歴や業績に関する数々資料が展示され、その軌跡を現在に伝えている。
(文=橋本玉泉)

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