日本のアダルトパーソン列伝

【日本のアダルトパーソン列伝】愛人は20数名! 天皇にまで「松方の子は何人いるのだ」と言われた性豪・松方正義

※イメージ画像:『明治・大正の宰相
<3>松方正義と日清戦争の砲火』

著:戸川猪佐武 /講談社

 明治の政治家・松方正義といえば、明治期の歴史に詳しい人か、日本の貨幣制度について知識のある人ならすぐにわかるかもしれない。薩摩藩(現・鹿児島県)の藩士の子として生まれ、武士としては低い身分ながら真面目に働き、異例の出世をする。やがて明治維新を迎えると、才覚と努力が認められ、大蔵卿(現・財務大臣)や内閣総理大臣も務めた。とくに紙幣整理や金本位制の確立、日本銀行設立などの業績で、今日までその名が伝えられている。

 その松方だが、別の点でも後世に知られる「業績」がある。

 ある日のこと、会議の後に宮中で酒宴が催された。その際、明治天皇が内務相の西郷従道(西郷隆盛の弟)に質問した。

「松方は、男の子と女の子が何人いるのか」

 それを聞いた西郷は、しばらく考えた後に言った。

「…誠に恐れ入りますが、ソロバンをいただけませんでしょうか」

 これには明治天皇と、そして居並ぶ閣僚や政府要人たちからも笑いが起こった。そのなかでただ一人、神妙な顔つきでうなずいていた者がいた。話題の本人、松方であった。

 このように、松方の子だくさんはとくに有名だった。徳富猪一郎がまとめた『公爵・松方正義伝』によれば、実子の数だけでも19人が記載されている。だが、実際には晩年までにはさらに、少なくとも4~5人の子がいたとされている。一説に、高齢になってからできた子供たちだったため、世間体が悪いということから子ではなく孫として届け出たからだともいわれている。また、正妻が出産したのは6~8人で、ほかは愛人などが生んだ子という意見が多い。

 さすがに20人以上の子供がいれば、評判になるのも無理はない。明治天皇は先の宴席以外でも、松方に何度も「子供は幾人あるか」とたずねていたという。その度に松方は、指折り数えては首をかしげ、「いずれ取り調べて奏上いたします」と深く頭を下げたと伝えられる。

 確かに20何人もいたら、正確な数はすぐに出てこないかもしれない。だが、名まえや個々の詳細ならともかく、人数くらいは把握しておくべきとの意見もあろう。この一連のエピソードは、松方について慎重さを誉める要素と、その鈍さやうかつさをけなす材料の、両方から引用されている。

 ただし、明治天皇は単なる興味本位で松方に子供の数を聞いたわけではないようだ。当時、乳幼児の死亡率が非常に高かった。明治天皇自身も20人の子をもうけたが、そのほとんどか出産直後か、あるいは幼い頃に亡くなっている。ところが、松方の子供たちは元気に成長していたため、明治天皇も驚いてその理由を知りたかったのであろうという見方がある。実際、日本では戦前頃まで新生児の死亡率が極めて高かった。江戸時代の平均寿命が40歳だったというのも、実は乳幼児の死亡率が常に7割を超えていたことによるものである。

 余談だが、松方の子の半数以上が正妻の子ではなかったことについては、さほど議論されていないように感じられる。当時、妾を囲う、すなわち愛人を持つことはいわば「男の甲斐性」と見られていた風潮があったようだ。これに対して、異議を述べた一人が、東大総長や文部大臣などを歴任し、現在の国語の教科書でも『新体詩抄』の選者の一人として知られる外山正一であった。
(文=橋本玉泉)

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