「重罪」だったり「常識」だったり 同性愛と政治の2000年史

milk20100122.jpgマイノリティのために戦った政治家ハーヴィー・ミルクの生涯『MILK』

 「グーグル撤退問題」に揺れる一党独裁国家、中華人民共和国。インターネット上における言論の自由のみならず、チベット人やウイグル人への迫害、法輪功への弾圧など、かの大国の人権問題が論じられる機会は多い。そんな中国では、セクシャル・マイノリティ(性的少数者)もやはり、自由ではいられないようだ。

 今月15日、北京市内のナイトクラブで開催される予定だった同性愛者のコンテストが、警察の介入により中止となった。推定3,000万人といわれる中国の同性愛者を代表してのイベント開催であったために、同事件は国内外のセクシャル・マイノリティから非常に残念がられている。

 しかし、警察権力によるイベントの中止といったことがあっても、同性愛に関して中国は、非西欧諸国の中では比較的寛容な国であるといえるだろう。同国では2002年に同性愛は犯罪ではなくなっているが、同性愛行為を重罪とみなす国は現在でも数多い。

 アジア・アフリカのイスラム諸国においてそれは顕著である。たとえば、インドでは同性愛を理由に逮捕されることはないが、隣接するイスラム教国であるパキスタンとバングラデシュでは、最大で終身刑が適用される重罪となる。

 現代において、同性愛に非寛容なのは主にイスラム教圏の諸国であるが、それではイスラム教だけが同性愛に対して厳しい態度であるのかといえば、そうではない。

 今でこそ同性愛に対して最も寛容な地域となっているヨーロッパだが、中世にはキリスト教の規範の下で、多数の同性愛者を処刑した経緯がある。

 当時の欧米にあった「ソドミー法」とよばれる法律は、同性愛だけでなくオナニーやフェラチオも禁止していた。違反者には極刑も認められていたため、「オナニーで死刑」という、現在から考えれば、あまりにムゴイ法律がまかり通っていた時代も、ヨーロッパにはあったのである。

 それ以降、欧州の列強諸国は段階的に、同性愛に対して寛容になっていくが、その中で特異的に同性愛に対して厳罰を課したのが、ナチス・ドイツであった。

 ユダヤ人を強制収容所に強制連行したことで知られるナチスの政策だが、その対象には少数民族であるロマや、政治的にナチスと対立する共産主義者のほかに、同性愛者も含まれていた。レズビアン雑誌が刊行されるほど同性愛が浸透していたドイツでは、ナチス政権期に、多くの人がその性癖のために命を落としたとされる。

 大戦が終わり、20世紀後半にセクシャル・マイノリティの解放が急速に進んだ結果、EUの影響圏内(イスラム教国のトルコまでを含めて)に、同性愛を違法とする国はなくなった。それどころか、欧州を代表する大都市であるパリとベルリンの市長は、ともに自らが同性愛者であることを公言。欧州統合の立役者である独仏両国の首都に、同性愛者の市長が立っているというのは、性の解放を印象付ける話である。

 さて、それでは本邦はどうだろう。

 明治以前の日本では、同性愛が公然と行われていた。仏教伝来と同時に伝わったという男性同士の性行為は、「衆道」「若色」などと呼ばれ、江戸末期まで続いた。代表的な仏教の宗派は、同性愛を禁止しないどころか、宗門の中で同性愛が行われるケースも少なくなかったという。

 一方で、女性同士の同性愛については、他の地域と比べても下火だったと考えられている。国内で女性の同性愛が公然となったのは、主に戦後だとされる。

 日本で同性愛が法的に禁止されていたのは、「鶏姦律条例」が発令された1872年から、廃止された1880年までの8年間だけである(ちなみにこの「鶏姦」とは、アナルセックスを指した隠語である)。

 話題を紀元前にまで遡ってみると、同性愛に対して寛容であった政治体制のほうが圧倒的に多数派となる。古代エジプト、古代中国にも、同性愛者の存在を示唆する文献は多数存在する。

 だがやはり、この手の話に事欠かないのは古代ギリシャ。女性同性愛者を指す「レズビアン」という言葉の発祥は、紀元前600年頃の古代オリエントにまでさかのぼる。歴史に残る最古の女性同性愛者である詩人サッフォーが住んでいたのがレスボスという名の島であったことから、女性同性愛者の俗称が「レズビアン」となり、今に至るまでその語が生き続けているというわけだ。また、古代ギリシャには、男性同性愛者ばかり300名を集めた「神聖隊」なる部隊が合戦に参加したとの記録もある。

 文明の中心がギリシャからローマに移ってからも、キリスト教が広まるまでの間、同性愛への嫌悪感といったものはないに等しかった。

 同性愛に対して非寛容な法制を敷いた体制には、中世ヨーロッパのキリスト教会、イスラム教、ナチス、そしてソ連共産党の四者が挙がるが、それらが例外的な存在だったと言うこともできるのではないだろうか。

 同性愛だけでなく、「性の解放」を進めることが常に良いことだとは限らない、という人もいる。しかしながら、性的行為を理由に死刑が執行される国が、依然として存在するのも事実であり、それらが極めて理不尽な政治体制であるということは、異論を挟む余地はないだろう。

 またこれらは、異性愛者である多くの人にとっても、他人事ではない。性に対して過干渉な政府の下では、それこそ「オナニーがばれて死刑」といったようなことが、あったとしてもおかしくないのだから。

『一億の性』著:武田敏史/文芸社刊

 
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