性愛求道者・隔たり連載「恋人がいる寂しさ#2」
※「恋人がいる寂しさ」#1はコチラ
新宿東口の地下改札口。
スーツを着た社会人とおしゃれな洋服を着た若者たちが誰かを待ち、改札を通る人並みを眺めている。誰かを待つ人、これから電車に乗る人、改札から出てきた人、駅構内を移動にために横切る人。ここにはたくさんの人がいる。その人の多さに吐き気がした。
人混みから避けるために、スーツを着た僕は改札から少し離れたところにある階段の隅に立った。就活を終えて約1年が経った社会人1年目の9月、僕はまだスーツを着こなせないまま、社会人と学生が入り乱れた街に居る。
学生の頃はよく新宿で酒を飲んでいたな、と何気なく思い出す。あの頃は何も考えず、好き勝手に酒を飲んでいた。自分には仲間がいる、そして未来がある。そんなキラキラとしたものに囲まれながら、楽しく酒を飲んでいた。
しかし社会人になると学生の頃の友達に会うことも少なくなり、新宿に来ることは少なくなった。久しぶりに見た新宿は何も輝いていない。ただ人が多いだけだ。
それでも、心はかすかに高揚していた。なぜなら、今日は久しぶりの女性とのデートだからだ。しかも居酒屋デート。女性とお酒を飲むのは久しぶりだ。それだけで、僕の気分は簡単に高まってくれる。
「隔たりくん?」
俯いていた顔を上げると、目の前にすらっとしたスタイルの女性がいた。瞬間的に「綺麗だ」と思った。女性に対して「綺麗」という感情を抱くのは久しぶりだった。
社会人になると、仕事ばかりの日常が始まった。生活の中で会う女性は、職場の人だけになった。僕の働いている職場には若い女性がおらず、全員30歳を超えていた。ほとんどが主婦のおばさんだった。そんな環境にいたからか、久しぶりに会った目の前の女性はとても美しく見えた。
「詩織さん、久しぶり」
彼女と会うのは、就活の説明会で会った時以来で2回目だった。初めて会ってから約1年半が経っている。あの時、詩織はスーツを着ていた。私服姿の詩織を見るのはこれが初めてだ。
詩織は黒のタイトニットにスキニージーンズを履いていた。スタイルの良さがよくわかる。スーツ姿の時もスタイルが良いと思ったが、今日はさらに足が長く見えた。胸の膨らみやくびれの曲線、すらっと長くて細い手足。これまで様々な女性と会ってきたが、その中でもここまでスタイルの良い子はなかなかいなかった。
僕は自分の姿を確認する。就活の時からずっと使っているシワのついただらしないジャケット、サイズの大きいダボっとしたズボン、そして踵のすり減った磨かれていない靴。詩織の姿が美しい分、自分の格好が恥ずかしくなってきた。
そんな僕をよそに、詩織は久しぶりという感じを見せず、いつも会っている友達のようなラフさで話しかけてきた。
「隔たりさんは今日、仕事だったんですか?」
「うん。そうだよ。詩織さんは休み?」
「はい、今日は休みでした」
「そうなんだ。休み中にごめんね」
「いえいえ、大丈夫ですよ。暇だったんで」
「ごめんね。それじゃあ、行こうか」
階段を登って地上へと出る。そこにも誰かを待っている社会人や学生がたくさんいた。僕はその人混みの中を詩織と歩いて行く。すれ違う人、特に男たちがチラチラと詩織の方を見るのがわかった。その視線に僕は逃げ出したくなり、歩くスピードを速めた。こんなに可愛い子がなぜこんなにみすぼらしい男といるのだろうか、そう言われているようで嫌だった。
「隔たりさんのスーツ姿見ると、就活のこと思い出すなあ」
怯える僕をよそに、詩織は明るい声でそう言った。詩織には今の僕が、あの大学生の頃と変わらない姿に見えているのだろうか。
就活の時の僕と今の僕。一緒なのはスーツをきていることだけで、中身は全く違う。会社に勤めたことで、僕は学生の頃に抱えていた輝かしい未来を失った。今、僕が持っているのは自分の無力さと情けなさ、弱い心だけだった。
それでも就活の頃に出会った詩織という存在が、少し僕を学生の頃の気持ちに戻してくれる。
「就活ね、なんか難しかったよね」
僕は学生時代の自分を思い浮かべながらそう言った。
「そうですよね。もう就活なんてしたくないですもん! 私、いろいろ受けたんですけど…」
詩織は目的地の居酒屋に着くまでの間、自身の就活の話をしてくれた。

初めて会った時も思ったが、詩織は綺麗でおしとやかな見た目をしてるのに、意外と自分のことをよく喋る。僕は詩織の話を「うんうん」と相槌を打ちながら聞いていた。詩織が楽しそうに話すので、僕もだんだん楽しくなってきた。
詩織と出会った時の就活生の頃の自分に戻っていくような感覚だった。嬉しかった。
まだ会ったばかりなのに、この瞬間がずっと続いて欲しいとさえ思った。明日になったら、また職場に行かなければならない。それは嫌だ。この瞬間がずっと続いて欲しい。
詩織の就活話を聞いていると、あっという間に目的地についた。エレベーターに乗って、予約した居酒屋の入っている7階を目指す。詩織とエレベーターに乗るのは説明会以来だなとぼんやり思った。
あのエレベーターはものすごく綺麗で大きなエレベーターだった。今乗っているエレベーターは5人くらいしか乗れない。だが、今乗っているエレベーターの方が僕は好きだ。狭いからこそ、詩織を身近に感じることができるから。
レジにいる店員に予約した名を名乗り、席に案内された。通された席はカウンター席だった。
僕が右側に座り、詩織が左側に座る。そしてビールをふたつ注文し、ジョッキが運ばれた後、乾杯した。
「詩織さん、内定おめでとう!」
「え、もう働いてるよ?」
詩織はビールを手に持ちながら不思議そうに笑った。
「就活の時に出会った仲だから、今更だけどちゃんとおめでとうを言いたくて」
「えーなんかありがとう。じゃあ、隔たりくんもおめでとう」
「おめでとう…なのかな」
「あ、やっぱりお仕事大変?」
「大変というか、悩むことが多くて。だから今日は詩織さんに会えてよかった」
「よかった?」
「うん。職場はおばさんばっかだから。久しぶりに可愛い子に会えてテンション上がってる」
「可愛いって、恥ずかしい」
「いや可愛いって。だから、この出会いに乾杯!」
「なんかよくわかんないけど…かんぱーい!」
キンキンに冷えたグラスに入ったビールを、僕はゴクゴクと体に流し込む。シュワシュワとした炭酸の泡が喉を刺激した。快感だ。この一瞬の快感が仕事の辛さを忘れさせてくれる。そして後々、このビールの中に入っているアルコールが、現実を楽しいものに変えてくれるのだ。
「隔たりさん、飲みっぷりいいですね」
グラスを片手に持ちながら、詩織が微笑む。
「まあね。今日めっちゃ飲みたい気分だったから」
「そうなんですね。何か嫌なことでもあったんですか?」
「いや、嬉しいことがあったからだよ」
「嬉しいこと? なんですか?」
「詩織さんに久しぶりに会えた」
僕はそう言って、再びビールを体に流し込む。ジョッキはあっという間に空になった。追加を頼む。
「じゃあ、私も今日は飲もう」
そう言って詩織も僕と同じようにビールをゴクゴクと飲んで空にし、追加を頼んだ。