メンズエステはトルコ風呂を超えられるか ~ニッポンの風俗史・戦後#5~

国策だった赤線が存亡の危機に


 吉原の赤線が店舗を建て替えた理由は2つあった。ひとつは戦時中の空襲による火災で焼けてしまったからだ。特に吉原のある台東区は、東京では最も被害の大きい地域だった。

 総務省の発表によると、東京大空襲後の昭和20年6月の住民数は、戦前に比べてたった15%程度しか残っていなかった。その中、吉原遊郭ではかろうじて焼け残った建物が2つだけあり、そこで営業をしていたとされる。

 そして洋風建築に建て替えたもうひとつの理由、それはRAAだった。遊郭の経営者たちは、吉原遊郭をRAAとして利用するという政府からの要請で、借金して進駐軍兵士が好みそうな洋風建築に建て替えたのだ。

 国策とあらば大手を振って商売できると喜んだものの、約半年でRAAは解散。政府にハシゴをはずされた形になり、残った借金を返すため、必死で商売していたのだった。

 そんな店主たちに襲いかかったのは、婦人団体や女性議員らによる売春禁止法の立法論争だった。「売春防止法」の原案となる「売春禁止法」は、婦人団体で協議され、女性議員によって国会に持ち込まれたが、その都度、立法には至らずに流れていた。

 しかし、昭和31年、自民党が選挙に向けて女性票を獲得するため立法に賛成し、第24回国会で可決。翌32年施行となった。1年間の準備期間を経た翌33年から、違反者には刑事処分が処されることになり、完全施行となった。

 赤線業者にとってはとんだ災難である。言ってみれば、米軍に建物を焼かれ、その米軍のために借金して建物を直したのに、今度は商売するなという法律が制定されてしまった。

 働く女性たちや従業員の生活はどうするのか、残った借金をどうやって返せばいいのか、まったく理不尽な政策だった。これに対し東京の赤線従業婦たちは、『東京女子従業員組合連合会』を結成、売春防止法の施行に反対した。

 しかし、運命の昭和33年4月1日午前0時、売春防止法施行により遊郭時代から連綿と歴史を紡いできた全国の赤線が終了した。この日以降、令和の今日まで、日本の法律では”売春”は禁じられている。

 売春防止法が施行されると全国の赤線街では、業者や女性たちが生き残りのため、それぞれに方向性の違う動きを見せ始めた。

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