パンパンと女神とアメリカと 〜ニッポンの風俗史・戦後#2~

 困窮していた時代、どんな客がそこで遊んでいたのか? 客の多くは、日雇いの仕事で小銭を稼いだ男たちだった。そんな男たちに宿に払うカネはあるはずもなく、15分100円ほどのカネを女に支払うと、焼け残った民家の部屋を時間借りし、そこでまぐわった。そんな間貸しの民家が黄金町周辺には当時7軒あったとされる。

 その宿賃もない場合は、その辺の暗がりで立ったまま、女がスカートの尻をめくり、後ろからやった。当時の土木作業員たちの日給は約40円(※注1)。15分遊ぶためには3日分が必要だった。

 無論、それだけで食べていけるはずもなく、彼らは米軍払い下げの食料をヤミで販売したりして稼いでいた者も多かった。

 住んでいた家を接収されたとは言え、隣町からいきなり入って来て、勝手にバラックを建てられた地主も、接収の被害者ではあった。しかし、混乱の状況下では出て行けとも言えず、住人はそのまま土地を借りることになったようだが、賃料が支払われていたかというと疑問はある。

 なぜなら、バラック街の治安は劣悪で、警察官すらパトロールを嫌がるほどだった。旧日本軍が所持していた麻薬がアメリカ軍に押収され、それが横流しされて黄金町に入って来ていたのだった。

 バラック街には小屋の小窓に腕を差し入れると麻薬を注射してくれる店が並んでいた。麻薬によるショック状態で路地に倒れ込む中毒患者も少なくなかった。それが黄金町を”麻薬と売春”の街に貶める引き金となったのだった。

 続く…。

〈文=松本雷太〉

 

※注1:終戦後はインフレが激しく、ひと月で倍ほども給料が変わったため、単純に物価の比較はできない)

 

<参考資料>

・「戦後性風俗体系」広岡啓一
・「敗戦と赤線」加藤政洋
・檀原照和著「黄金町クロニクル」(スタジオ天神橋)
・「西条昇の観て、笑って、飲んで、食べて、踊って日記」HPより

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