現代風俗の基礎を築いたあの頃 ~ニッポンの風俗史#13~  

歴史があるから今の風俗、エロがある

 バブルが崩壊したのと同じ頃、世間ではわいせつ表現の崩壊も話題になっていた。篠山紀信撮影の樋口可南子写真集『water fruit 不測の事態』に掲載されている写真数枚に、陰毛が写っていたのだ。しかし、摘発は行われず口頭での警告のみに終わり、版元による回収も行われなかった。

 実は、ヘアーが見えている写真が雑誌に掲載されることは過去にも度々あった。しかし、いずれの場合もカメラマンは「芸術表現」を主張していた。そして、徐々にヘアー露出の拡大と認知を図っていたのだ。

 『water fruit』が、事実上の日本の出版・映像業界におけるヘアヌードブームに先鞭をつける形にはなったが、これにはそんな経緯と、著名なカメラマン・篠山紀信の作品だからこそ為し得た快挙と言える。

 また同じ頃、横浜では風俗店を巡って大きな変革が起きていた。1992年、曙町にあった大きな病院が移転したことにより、風営法の規定を免れる地区が出てきたのだ。そこに風俗店が続々と参入していった。

 ご存知の通り、新風営法による新規風俗店の営業可能地域は、学校や病院などから半径200メートル以上離れていることが必須条件。すでに都内や主だった歓楽街には該当する地域は皆無だが、当時の横浜の風俗業者にとっては、繁華街が至近距離にある”最高の土地”が提供されたのだった。

 冒頭で筆者が訪れた風俗店も、こういう理由で誕生したことになる。都内の風俗店の歴史に比べると、「意外に最近」なことに驚く読者もいるに違いない。

 そして、1990年代後半に入ると、歌舞伎町や池袋の歓楽街には禁止されているはずの風俗店が続々と出店し、大きなブームを作り出していくのだった。続く…。

〈文/松本雷太〉

 

<参考文献>
・「日本風俗業大全」データハウス 現代風俗研究会著
・「風俗のミカタ1968ー2018」人間社文庫 伊藤裕作

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