現代風俗の基礎を築いたあの頃 ~ニッポンの風俗史#13~  

女優が抱ける風俗店の登場

 1991年、歌舞伎町を中心に、池袋、新大久保、高田馬場には、性感ヘルスやイメクラなど店舗型風俗店ができ始めていた。翌年には五反田を中心にSM店や韓国エステがブームとなり、風俗業界は遅れてきたバブル時代に突入していった。

 歌舞伎町一番街や池袋西口、北口を中心に店舗型風俗店は増え始め、マンションの一室を利用したマンションヘルスも登場した。筆者も当時、池袋のマンションイメクラにはよく通っていて、マンションや雑居ビルなのに店内を電車風の部屋にした痴漢イメクラや、オフィス風に改装したセクハライメクラなど、様々な風俗店があった。


「歌舞伎町を中心に店舗型ヘルスができ始めたのが91年頃で、それが増え始めたのが94年前後ですかね、」


 そう語るのは、風俗ライターの藤堂氏(仮名)だ。


「マントルやホテトルはずっと以前からあったけど、当時、池袋はイメクラ、渋谷はマンヘルが多かったです」


 風俗広告の代理店代表加藤氏(仮名)が付け加える。


「歌舞伎町にもマンヘルはあったんですよ。ホスト街裏のバッティングセンターあたりですね。ホテトルやマントル業者から、マンヘルや店舗型ヘルス、その後のデリヘルに変わっていったんです」


 風俗店の顧客が多い不動産屋の藤田氏(仮名)は当時の様子をこう語る。


「バブルは崩壊しても、景気は今よりマシでしたよ(笑)。風俗は歌舞伎町が先行したけど、渋谷はテナント不足、池袋は東口に店舗型ヘルスが少しと北口は、正面のマンションから始まった。西口の丸井そばに移ったのは、ずいぶん後の98年頃。ちょうどフードルブームの頃ね。オレも指名で遊んだからよく覚えてるよ(笑)」


 91年のバブル崩壊とともに歓楽街に到来したのが、80年代に次ぐ第二次風俗ブームだった。そしてこの第二次ブームを象徴するのが、急増する風俗店で働く女の子たちの新しい動きだった。アダルトビデオに出演する女のコが風俗店で働いたり、風俗店で働いていた女の子が、AVに出演することが増えていったのだ。いわゆるAV風俗の誕生だった。

 飯島愛をAV界に誘ったと言われている後藤えり子は、風俗からAVに来た先駆者のひとりで、新宿の高級ソープ『D』に在籍していた。また、葉山レイコや星野ひかるらと共に1990年代に人気を誇った浅倉舞は、引退後は吉原のソープランドに在籍し、彼女のファンだった元メジャーリーガーの松●秀喜が遊びに行ったとか行かなかったという噂も当時流れた。


「AV黎明期の80年代は、人気女優も限られていて、各メーカーがアイドル的な女優を捜していたんです。人前で脱げるかわいいコや美女を。そこに現れたのがイヴであり早川愛美だったんです」


 当時をそう振り返るのは、大手AVメーカーで広報を担当していたM氏だ。トップ女優を抱えていないメーカーや女優事務所は、風俗店で人気の女のコをスカウトすることもあったという。


「すべて覚えているわけではないですが、有名どころだと坂巻リオナや森村ハニーは、元々ソープにいる所をスカウトされてAVに出演。その後ソープに復帰したか、兼業していたんだと記憶してます。森村ハニーは兼業だったんで、AVデビューした後、たまに出勤した時の予約争奪戦の熾烈さは、吉原ソープ史上、最も激しい嬢のひとりだったんじゃないですか。坂巻もそうとう人気あったみたいですけど、森村ほどではなかったようです」(同M氏)


 今となっては懐かしいビッグネームだが、今より美人女優が貴重な時代だっただけに、彼女たちの生肌が店で堪能できたことは、なんとも羨ましくもある。

 

第二次風俗ブーム到来! 三種の神器とは

 そしてもう一つ、第二次風俗ブームを象徴するのは、女子校生の存在だ。こちらも80年代に次ぐ第二次女子校生ブームだった。もちろん、風俗店で女子校生が働くことはできないが、そんな彼女たちが行き着いたのがブルセラやデートクラブだった。

 その時の女子校生ブームを牽引した三種の神器が、セーター、ミニスカ、ルーズソックスだった。特にルーズソックスは女子校生の代名詞ともなり、ヘルスやイメクラの衣装の定番に。そして、ブルセラでも人気商品に上り詰めた。

 93年に『ルーズソックス』が発売されると、ブルセラショップで高校の制服やスクール水着、体操服、下着の取り扱い量が急増したのは、『女子校生』がブランドとして確立していた証拠である。女の子たちは身につけていた下着や靴下を売ることで、お小遣い稼ぎができたのだ。

 そして、ブルセラでパンツ売りにとどまらない女のコたちが向かったのがデートクラブだった。94年に急増したデートクラブに出入りする女のコの大半が女子校生だった。

 その秋、新宿の女子校生デートクラブが一斉摘発され、出入りしていた女のコたちも補導された。すると、都内のデートクラブは一斉に閉店。行き場を失った女子校生たちが向かったのは、テレクラやダイヤルQ2だった。

 Q2ではすでに”売春”という意味での援交市場が確立されていたため、以前は売春とは無縁だった女子校生までもが援交女子にシフトしていった。

 社会学者で、著書『援交から革命へ 多面的解説集』(ワニブックス)などで知られる宮台真司氏は、ブログにこう書いている。


「当初、テレクラには売春はほぼなかった。しかし、出会ってすぐに性交できるという未規定制を規定化するため、男性が自発的にお小遣いを渡す習慣ができ、それを契機に、『お小遣いが欲しい』と持ちかける若い女性が増えた」


 意外だが、テレクラで売春という意味での援交が始まるきっかけは、女性側からではなく男性側からの提案だったようだ。

 開業当初からのテレクラマニアA氏(52)も加える。


「今も昔も、男の目的はヤリたいという欲望だけです。空振りしそうな時は、多少なら金を払ってでもいいからヤろうとする。でも、当時の女のコは、純粋に『カレシが欲しくて』かけてくるコも少なくなかった。今の女子校生ビジネスとは根本的にノリが違うような気がします」


 リアル出会い系の時代、若い女のコたちが求めていたのは、実はお金より心の充実だった…? ひょっとすると、補導された女子校生たちも、本物の出会いを求めていたのかも知れない。

 そして、この頃の女子校生たちは現在45~48歳となり、今の女子校生たちの母親世代である。つまり、現在の女子校生たちは、『テレクラ・ブルセラ世代Jr.』というあたりは、非常に興味深い。

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