京都から始まったニュー風俗の時代 ~ニッポンの風俗史#10~

前代未聞のアイディア喫茶


 昭和51年(1976)、ロッキード疑惑で前首相・田中角栄が逮捕されるという前代未聞の汚職収賄事件に、世間は一色に染まっていた。風俗では堀之内に前代未聞の5万円の超高級トルコ風呂『金瓶梅』が登場(昭和52年)。そしてその翌年、第二次オイルショックが世界を揺るがす頃、京都の西加茂でも前代未聞の喫茶店が誕生していた。

 その小さな喫茶店『ジャニー』が始めたのは、前衛的なインテリアでも、超おいしい新しいメニューでもなく、ウエイトレスの制服をミニスカノーパンにしたことだった。

 ウエイトレスをノーパンで接客させるという、単純でなおかつエポックメイキングなアイディアは、それまではトルコ風呂とピンサロしかなかったニッポンのフーゾク界に射した一筋の光だった。そして、インターネットもない時代にも関わらず、急速に全国へと広まっていった。

 ノーパン喫茶の発祥は諸説ある。『フーゾク進化論』の中で著者の岩永文夫氏は、同じ京都にあった『モンローウォーク』説を推している。だが、筆者調べではこれは『ジャニー』の2年後のこと。さらに、北九州の『天まで跳べ』説もあるが、こちらも『モンローウォーク』と同じ年だ。

 筆者の想像では、”ノーパンウエイトレス”というアイディアを生み出したのは『ジャニー』だったが、衣装はミニスカスーツにノーパン、パンストだったため、話題にはなったが爆発的人気とまではいかず、そのアイディアを昇華させたのが『モンローウォーク』や『天まで跳べ』だったのではないだろうか。

 そして、ノーパン喫茶を一躍全国に印象付けたのが、大阪の『あべのスキャンダル』だった。ノーパンにテニスウェアのミニスカという『モンローウォーク』のアイディアをさらに昇華させ、もはやスカートとは呼べない小さなエプロンだけを身にまとったウエイトレスが、コーヒーを運ぶというよりは、客の前で音楽に合わせて腰を振るのだ。

 丸見えのオッパイと、チラ見えするヒップや股間をつまみに客たちは、一杯1500円のコーヒー(当時、喫茶店で飲むコーヒーの相場は280円程度)をチビチビと舐めるのだった。ちなみに『ジャニー』のコーヒーは一杯500円だった。

 その光景は、当時若者を中心に人気が出始めていたテレビの深夜番組でも紹介されたので、50代以上の読者は頭の片隅に残っているに違いない。特に人気だったのがテレビ朝日の『トゥナイト』で、山本晋也監督の風俗街リポートでは、『あべのスキャンダル』の扇情的な光景と、「ほとんどビョーキ」などのフレーズが印象的だった。

 昭和56年(1981)のノーパン喫茶最盛期には、名古屋に床がガラス張りで女の子の股間が丸見えの店も登場。中にはパイパンのワレメに絆創膏を貼っただけというウエイトレス(?)も現れた。

 当時の様子を『あべのスキャンダル』のオーナーだった有田光昭はのちに週刊誌のインタビュー記事の中でこう語っている。


「開店当初は、1日30万円の売り上げがあればいいと思っていた。でも、ふたを開けてみたら、最高1日200万円売り上げた」


 翌年には豊島区東長崎に東京初のノーパン喫茶『ルルド』が開業している。トルコ風呂が全国に広まるのも早かったが、設備に大きな差があるノーパン喫茶の拡散は、その比ではなかった。翌年には東京で200軒、大阪で140軒がオープンしている。

 当時、原宿近くのアパレルメーカーで働いていた筆者は、毎日麻雀に明け暮れていた職場のチーフが興奮気味に事務所に入って来て、


「アソコにできたノーパン喫茶知ってるか!? 窓の外からのぞいてるヤツたくさんいるぞ」


 と、嬉しそうに言っていたのを覚えている。しかし、当時は風俗には興味がないフリをしていた若かりし筆者は、残念ながらノーパン喫茶には一度も入らなかったことが今としては悔やまれる。

 そんな扇情的な喫茶店が世間を賑わすその裏で、実はノーパン喫茶の登場は、”ノーパンのウエイトレス”というだけでなく、風俗界にとって革命的な現象を起こしていた。

 それは、それまでのトルコ風呂やピンサロにいた女性たちの中には、若くもなく容姿の優れない、そして悲壮感を背負った女性も実は少なくなかった。

 しかし、”さわらず、さわられず、脱ぐだけ”で、OLの数倍もの給料を手にすることができる職業として、風俗は働き手である女性たちの裾野を広げ、働きやすい「明るく楽しいフーゾク」へと大きな変革をもたらしたのだった。

 


 ビニール本登場

 昭和54年(1979)、日本一の盛り場ではあったがピンク色は薄かった新宿・歌舞伎町に、突如として現れたのが「ビニ本」だった。第二次オイルショックで「省エネ」が叫ばれ、夜の盛り場のから灯が消えかかる中、コマ劇場とさくら通り周辺にその専門店が次々と現れた。

 もちろん、当時の雑誌はヘアーはまだ解禁されていない時代。そこに、シースルーの薄布の向こう側にヘアーや縦スジ、その中身まで見えそうなソフトなものから、女の子自身が指で広げたモロ出しの本までが勢揃いしたのだ。

 丸見えのエロ本はそれ以前からあったが、ビニール袋に包まれて店頭で販売されたのがこの頃。その後、店舗販売から自販機中心になっていった。

 しかし、当時の自販機は硬貨のみ可能で、紙幣は入らなかった。ポケットいっぱいに百円玉をジャラジャラさせた筆者は、深夜の自販機求めてなるべく人気のない路地を徘徊したものだった。

 また、ビニ本好きをアピールする芸能人も現れていた。フォークグループ『アリス』の谷村新司もその一人で、自分のラジオ番組の中で、「ビニール谷村」と自称するほどのビニ本好きだった(笑)。


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