「これでパクられても大丈夫」売春婦たちによる保険会社設立

※イメージ画像 photo by Pecherskiy Konstanti from flickr

 「保険をかける」という表現は、実際に保険会社に契約する時ばかりではなく、生活や仕事でのリスク回避の際に何らかの準備をしておく場合によく使われる。

 ところが、本当に会社まで作ってリスクに備えることを始めた女性たちがいた。しかもその彼女たちは、いわゆる売春によって収入を得ていた女性たちである。

 明治12年(1879)10月30日の「朝日新聞」をみると、『淫売相互保険会社』というタイトルの、短い記事が載っている。現代の感覚からすると何とも不適切な表現だが、時代が時代なので原文のまま引用する。どうかご勘弁を。

 記事によれば大阪の江戸堀北通2丁目あたりに出没する売春婦の有志30人ほどが集まり、南通2丁目に事務所のようなものを定め、一人当たり1日3銭の積み立てを始めたという。そして、「万一社員の拘引罰金を科せられし時は積金より支払ふ方法」のだそうである。

 さて、明治6年12月に「公娼取締規則」が施行されると、これを受けて営業許可である「貸座敷渡世規則」、ならびに就業について定めた「娼妓渡世規則」が発令され、公娼制度が合法化された。これによって、届出を済ませ許可を受けた公娼は営業できるが、それ以外は私娼として処罰の対象となる。この大阪の保険会社の社員たちも、非合法的な私娼と考えられる。

 当時、まだ法律が施行されてそれほど経っていない時期だったため、私娼で生活する女性たちも少なくなかったのであろう。また、公娼になることを嫌った女性も多かったのではあるまいか。

 ともかく、そうしたニーズをカバーするものとして、「これでいざ捕まっても、保険金で罰金が払えるからすぐにシャバに出ることができる」という意図だったわけである。

 彼女たちの発想が、日本に古くからあった「講」を参考にしたものだったのか、それとも、いち早く欧米の保険の知識を取り入れたものだったのかはわからない。そして、日本最古の生命保険会社である共済五百名社(現・明治安田生命保険会社)が設立されたのは、この翌年の明治13年(1880)であった。

 ちなみに、精力的に営業していたこの保険会社の社長さんは、大阪市北区曽根崎にある露天神社、通称・お初天神のあたりに出没するお菊という女性だそうである。このお菊さんがどのような人物だったのかについては、目下調査中である。
(文=橋本玉泉)

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