【平成風俗史】高度経済成長と共に成長した二つの風俗

 そろそろ本題に入ろう。昭和39年の東京オリンピックの2年後、日本の人口は1億人を突破している。その2年後の昭和43年には、あの3億円事件が発生。ちょうどこの頃、庶民の風俗・ピンクサロンが芽吹き、川崎・堀之内のトルコ風呂では、「泡おどり」が開発されている。筆者が思うに、3億円事件の犯人もピンサロや泡おどりを体験したんではなかろうかと。

 東京オリンピックに続いて、昭和45年(1970年)には「日本万国博覧会(大阪万博)」が開催された。オリンピックに万博と、まさに日本の高度経済成長に後押しされるように、国際イベントが続いていたその頃、ピンクサロンは全国的に急増し、庶民風俗の代表となっていた。ただし、当時のピンサロは、フェラではなくオスぺ(手コキ)が主流だったといわれている。

 同じ頃、埼玉県・西川口に登場したのが、「地下トルコ」とよばれる「トルコ歌麿」だった。

 今から10年ほど前、同じ西川口にひらがなで「うたまろ」というNK流の店があったが、ひょっとしたら系列なのか、それとも偶然なのか、今となっては謎のままだ。

 昭和48年(1973年)、風俗はトルコ風呂、ピンサロともに店舗数が急増。全国のトルコ風呂は約1200軒、“トルコ嬢”は約1万6000人登録されていた。

 この数字を現在の全国のソープランドの数と比較してみると、平成28年は約1200軒なので、経過途中で増減はあったものの、結果としてほぼ同程度だということがわかる。

 

昭和48年の「週刊現代」表紙。真野響子の顔の横には「安心して行ける大都市のトルコ風呂」というキャッチコピーが。



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