【平成風俗史】昭和風俗の遺産~トルコ風呂の発祥から泡おどりまで~

 銭湯の料金が12円だった当時、トルコ風呂の入浴料は大衆浴場が100円、個室は600円と、一般庶民には手の届きにくい料金だった。にもかかわらず、大人気で連日満員御礼だったのは、客には米軍関係者や政財界の名士たちが多かったからのようだ。

 

東京温泉のパンフレット。英語で書かれており、米軍関係の客が多かったというのがわかる。


 できた当初は、サウナのマッサージ程度だったトルコ風呂のサービスも、数が増えると競争の原理にしたがって、過剰になっていった。

 筆者の頭の中では、トルコ風呂の光景というと、伊藤裕作氏が語る半袖の白衣とショートパンツの女性の姿ではなく、大きめのブラジャーとショートパンツの、いわゆる「トルコ服」などと呼ばれた制服である。そのブラパン型に変化したと同時期に、サービスも激化していったのではないだろうか。

 トルコ風呂のサービスが過激化したのは、昭和28年頃からだといわれている。当時、浅草のひさご通りにあったトルコ風呂では、オスぺ(手コキ)ができると評判になったという。

 しかし、「売春防止法」が完全施行され、吉原に初のトルコ風呂「東山」が開店するが、同店でも当初は風俗サービスは行われず、厳格に管理されていたと言われている。

 吉原の遊郭がトルコ風呂に変わると、そこにいた女性の多くがそのままトルコ風呂にスライドすることになった。つまり、個室で男女が二人きりという設定に変わりはなく、ついつい、風俗色が濃くなってしまうのは、目に見えた展開だったに違いない。

men's Pick Up