<最終回 戦後・現代編>

【日本の風俗発祥に迫る】 外国人すら羨む! 日本が誇る風俗の多様性


 赤線・青線は1950年台初頭に最盛期を迎えた。東京や大阪、横浜などの大都市圏では、外国人も日本人もこぞって足を運んだ。しかし、1958(昭和33)年に施行された「売春防止法」によって、赤線は廃業に追い込まれた。国連加盟のため、売春の禁止は必須だったからだ。7~10万人もの赤線女性たちが職を失うことになったと推定されている。

 一方で、青線は非公認だったおかげで廃業を免れた。1964年(昭和39)年の東京オリンピックで取り締まりが強化されるまで、1階はバー、2階で売春するという業務形態が続けられたのである。新宿ゴールデン街の建物が2階建てで連なっているのは、かつての青線の名残り。都心から離れた旧青線街では、今も「チョンの間」として残る場所もある。

 当時、街にはパンパンと呼ばれる街娼も多くいたが、これも「売春防止法」によって徹底的に検挙され激減。次第に風俗嬢たちはトルコ風呂などに所属するようになった。

 こうしてトルコ風呂は戦後風俗の一大産業に成長していった。1960年代に入ると、トルコ風呂はポスト赤線の風俗として定着したのである。当時のサービスは着衣の女性による手コキが主流。本番を売りにする店もあったが、そのたびに摘発を受けたが、その勢いは衰えることはなかった。それほど男性からの支持が圧倒的だったからだ。

 1979(昭和51)年には、全国で1450店舗。推定利用者は2070万人を超え、売り上げは2900億円にまで及んだという。約10年ごとに風俗に関する法律は改定・施行されたが、これほどまで巨大化した産業を当局が厳正に取り締まることはできなかった。さらに、規制をすればするほど、風俗産業は新たな業態を生み出していった。

 たとえば、ピンクサロン。60年代の売春防止法をキッカケに生まれた新産業で、当初は手コキが主流だったが、70年代後半には本番行為を行なう“本サロ”が登場。2000年代まで埼玉・西川口に存在した『NK流』は、本サロの流れを汲んだものだった。

 さらに70~80年代前半にかけては“ニュー風俗”と呼ばれる業態がぞくぞくとオープン。代表的なのはノーパン喫茶だ。傾きかけた京都の喫茶店『ジャーニー』が考案したもので、ノーパンのウェイトレスがテーブルにカップを置こうとして前かがみになるのをひたすら男性が待つだけ。手コキなどのサービスは一切なかったが、1980(昭和55)年に東京・池袋に上陸すると、またたく間に広まった。最盛期には全国で800軒もあったという。ノーパン喫茶が風俗業界にもたらした功績は、女性が風俗に入るハードルを下げたことにある。この頃から学生やOLなど、一般的な女性がバイト感覚で風俗で働くようになったのだ。

 このように現代風俗は80年代にほとんどが登場していた。コスプレを売りにしたイメクラ、電話で“出会い”を演出するテレクラなど、風俗業界が多様性をもち、性の可能性を大きく切り開いた時代といえよう。

 こうして連綿と受け継がれてきた日本の風俗は、外国人が羨むほどの多様性とサービスを我々に提供してくれている。

 2020年の東京オリンピックに向けて、性産業の取り締まりは厳しくなると予測されている。しかし、一方で文化として根づいている以上、政府も生かさず殺さず、一部の風俗産業を黙認するともいわれている。また、近年は世界的に日本の風俗が広まり、外国人客が多く訪れるという現象が起きている。むしろ性風俗が海外マネーを稼ぐ一大産業になる可能性すらあるのだ。

 断言しよう。どんなに規制が厳しくなろうとも日本の性風俗がなくなることはない。それは今まで論じてきた歴史的・文化的な背景を見てもあきらかだ。規制が強まれば、また新たな業態が生まれ、循環を繰り返していくのだろう。

 そして、決して風俗嬢は奴隷ではない。むしろ我々の疲れた心を癒してくれる女神である。汚れているのは、風俗にまつわる者たちではなく、それを蔑み、差別する人々ではないだろうか。

 性風俗は、日本の美しい文化のひとつなのだ。
(文=中河原みゆき)

men's Pick Up