歴史探訪

【日本のアダルトパーソン列伝】永井荷風

danchoutei0803.jpg※イメージ画像:『摘録 断腸亭日乗〈上〉』著:永井荷風/岩波書店

 文学者、とくに作家には変わり者が少なくない。近代や現代の文学史を見渡すと、変人や変わり者の類が実に多い。だが、そのなかでもとくに際立った変人ぶりで異彩を放っている者といえば、永井荷風(1879~1959)が真っ先に挙げられるだろう。

 荷風散人、本名・永井壮吉は、東京・小石川の裕福な家に生まれた。良家の子息で両親ともに知識人だった荷風は、幼い頃から文学に親しむ。その一方で、エリートだった父親への反発からか、旧制中学(現在の高校くらい)の頃から芸者遊びや色街通いを始める。19歳の頃には、すでに吉原に足しげく通うほどだったという。

 中学卒業後は高校受験に失敗。高等商業学校付属外国語学校(現・東京外国語大学)に入学し、文学にも没頭するようになるが、授業よりも作家の門下生となり、また落語家に弟子入りするなどしていた。さらに、試験が嫌いで受けなかったために21歳で除籍となる。その一方で、この頃から小説を次々に発表。

 その後、25歳の時に渡米。最初はミシガン州のカレッジに入学するが、やはり大人しく教室で勉強などしていない。半年後にニューヨークに移り、さらにワシントンに行って日本大使館で雑用として住み込みで働いたり、銀行員の臨時社員になったりして生活する。やがてフランスに渡ると、ここでも銀行の臨時雇いをしながら売春宿などに入り浸る。この頃の体験をまとめたものが、『あめりか物語』『ふらんす物語』として好評を得て、やがて作家としての地位を確立していく。

 その後、森鴎外や上田敏の推薦によって、明治43年、32歳の時に慶応大学文学部教授に就任。ところが、依然として芸者遊びや遊郭通いは休むことがなかった。それを荷風は隠すこともなかったため、「永井先生は芸者の所から大学に通勤している」と噂されるほどになり、大学内部でも荷風に対する批判が高まった。

 これを快く思わなかった荷風の父が、押し付けるような形で縁談を進めた。荷風はこれをしぶしぶ受けたが、やはり芸者遊びは収まることはない上に、「子どもができて家庭に縛られたくない」と、新妻とのセックスには必ずコンドームを使用する有様だった。当時、コンドームは芸者や娼妓が使うものだったため、荷風の妻も夫に気持ちを寄せることもなかった。そのため、1年も経たずに離婚することとなった。

 その直後、荷風は馴染みだった芸者の一人、巴屋八重次と再婚するが、芸者遊びや遊里通い、人妻との不倫が途切れることはなく、やがて八重次も愛想を尽かし、置手紙を遺して出て行った。

 そんな荷風も、年とともに下半身が衰えるかと思いきや、まったくそんな様子は見せなかった。50歳過ぎてから、渡邊美代という女性に出会ったが、彼女は変わった性癖の持ち主だった。たとえば、「普通の体位では快感が得られない」と、荷風にさまざまな体位でのセックスを要求し、それを荷風もいたく関心を持ったという。

 またある日、美代は荷風と会う時に自分が同棲している男を連れてきた。そのあとは、現在でいう3Pをさんざん堪能したという。

 さらに、美代とその男は、カネをとって自分たちのセックスを待合(現在でいうラブホテルの一種)で他人に見せていた。荷風はそれを、当時としては高級品だったカメラを購入して撮影していた。荷風はカメラを何台か購入しているが、そのうちの一台はかの名機ローライフレックスだった。当時の値段で300円。まだサラリーマンの初任給が40円から50円という時代である。

 荷風は若い頃からずっと日記をつけており、それが後に『断腸亭日乗』として出版されることになるのだが、そのなかには自分が関係を持った女性についての記述もある。もちろん、記されているのは女性の一部に過ぎない。荷風についての下半身逸話は、それこそ本1冊分になるほどであると言われている。
(文=橋本玉泉)

20120803nagai.jpg『断腸亭日乗』昭和11年1月30日(岩波版「荷風全集」)より

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