【女と男の隔たり】元カレが忘れられない女:前編

「あの、『あ。』さんですか?」


 女はゆっくりとこちらを振り向いた。


「あ、そうです。隔たりさんですか?」


 沸き上がった熱が、徐々に冷めていく。血の気が引くように、僕の体から熱が引いていくのがわかった。


「あ、う、うん」


 恐竜顔というのだろうか、女は少し主張の激しい顔をしていた。つり上がった目に、筋張った鼻。顔の輪郭も、ホームベースのように角があるような印象だった。

 だからと言って、女は決してブスということではない。誰かから見たら美人とも言われる顔であろう。しかし、僕は彼女のスタイルから勝手にモデルさんのような美しい顔を想像してしまっていた。やはり期待しすぎるのはよくないな、と反省する。


「あの、どうしますか? 混んでいて、ひとつしか席取れなかったんですよ」

「そうだね…」


 女が話しかけてくれたが、僕はなんだかどうでもいい気分になっていた。主張の強い顔は正直苦手だ。怖くなる。なんだかずっと見ていると、お化け屋敷に出て来そうな顔のようにも思えてきた。当たり前だが、それで帰りたくなっているとは女には言えない。


「とりあえず、出ますか? ご飯屋さん探しますか?」


 女の顔を眺めているのはよくないなと、僕は目線を下に移した。紺のニット越しのバストの膨らみ。すらっとした細い足。やはりスタイルは、ものすごく良い。顔から下はモデルさんみたいだ。その胸、その足に触れたくなる。触れたくなる…。


「とりあえず外でようか」


 僕らはスタバから外へ出た。


「行くところ、決まってるんですか?」

「うん。ホテルに行こう」


 僕にとって、この女の人は「あ。」だ。「あ。」という名前で呼ぶ距離感の相手なんだ、と言い聞かせる。

 そう思ったら、ホテルに誘うのも簡単だった。

 女は最初渋っていたが、色々な言い訳を言って粘ると、最終的には了承してくれた。こうして僕らは道玄坂のホテル街へと向かい、安めのラブホテルに入ったのだった。

 そして今、女は泣いている。


「…急にフラれちゃって…私、好きだったから…」


 再び女の頬に涙が流れた。その涙の軌道を、僕はぼんやり眺める。人間の体って水分でできているというけど、あれは確か何パーセントだっけ。

 ホテルに入ってすぐに、僕はセックスに誘った。だが、女はそれを断った。理由を尋ねると、女は「前の彼が忘れられないから」と言った。

 すると、女は急に元カレのことがどれだけ好きだったかということを語り始めた。その話は僕にとってとてもつまらないものだった。ラブホテルにふたりきりでいる状態で「別れてしまった元カレのことがいまだに大好き」という話は、気分が萎える。

 女が延々と話していたので、僕は興味を失っていた。そしたら、気づけば女の頬に涙が流れ、無言の時が流れたのだった。


「…マリのことは好きだよって、彼は言ったの。でも好きなら、なんで別れるっていうのか私にはわからなくて…」


 そうだった。女の名前はマリだった。違和感がひとつ消え、少し晴れやかな気分になる。


「私…彼のことがすごく好きだったの。初めてあんなに人を好きになったの。もうあの人には新しい彼女がいるけど、私は、今でもすごくすごく…好きなの」


 隣の部屋のドアの開く音が聞こえる。このホテルは古いから、壁が薄いのだろう。マリが話している間、何度も何度もドアの開閉する音が聞こえた。何度も部屋のドアが開くということは、客がいるとは考え難い。清掃中なのだろうか。


「その人と付き合っているときは、そんなこと思わなかったの。別れてすぐは、そんなに傷つかなかったのね。一方的にフラれた感じだし、なんなんだって思ったんだけど…」


 ラブホテルの清掃の仕事って大変だろうな。ゴミ箱には精子の入ったコンドームがあるだろうし、知らない誰かがさっきまで性行為をしていたベッドをきれいにしなくてはならない。僕には絶対にできない。


「でも…だんだん彼の大切さを知っていったんだよね。よく言うけどさ、別れたら相手の良さに気づくって、うん…本当だね」


 もし清掃に入った部屋のベッドがきれいなままだったら、清掃員はどう思うのだろう。仕事が減ってラッキーと思うのだろうか。それとも、ホテルに入ったのにセックスしないなんてと、不思議に思うのだろうか。


「…付き合ってる時は気づかなかったけどさ、いま思えば彼の大好きだったところがたくさん出てくる。頭も良くて、かっこよくて、おしゃれで、優しくて、知らないことたくさん教えてくれて、すごいスペックをたくさん持っていた。私になんか勿体無いくらいに…」


 また女の頬に涙が流れた。

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