
現在、東京地裁ではあの”秋葉原17人殺傷事件”の公判が続いている。2008年6月8日午後0時30分過ぎ、信号無視したトラックが交差点に突入。その後車を降りた運転手が、通行人や警察官を持っていたナイフで次々と刺し、殺傷したという事件である。トラックにはねられたのは5名、ナイフで刺されたのは12名。これらのうち7名が死亡した。
逮捕されたのは、当時25歳の派遣社員・加藤智大被告。犯行当時は静岡県の工場で派遣社員として働いていた。逮捕後「生活に疲れた。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」などと、いかにも通り魔が言いそうな供述をしていたことが明らかになっている。
初公判で「お詫びをさせてください」と被害者への謝罪の意志を見せた加藤だが、弁護人は責任能力を争う姿勢を見せている。よくあるウンザリな主張だが、弁護側の方針には、他にも大きな問題があった。被害者らの供述調書の証拠採用を弁護側が不同意としたため、結果としてそれら被害者や関係者ら、計42名もの証人が公判に出廷しなければならない事態となってしまったのである。あの日秋葉原で被害に遭った方やその関係者らが、公開の法廷でその様子を、被告人の前で語らなければならないのだ。「お詫び」と言いながら、この弁護側の方針に従っている加藤の真意はどのようなものなのだろう。
そんな理由で、裁判のハイライト・被告人質問はまだまだ先の予定となっており、現在は42名の関係者らの証人尋問が粛々と行われているのである。当然ながら、加藤の出番はまだない。証人の供述を聞きながら、何も言わずうなだれているだけである。時にメモをとり、顔を掻いたりもするが、主に終始無表情。何を考えているのかは表情からほとんど読み取れない(ちなみに容姿やモテないことに関してコンプレックスを持っていたことが分かっているが、本人が思っているほど悪くない)。尋問では必ず最後に検察官が「被告人に言いたいことはありますか」と各証人に話を振り、その度証人らはそれぞれの言葉で加藤に気持ちをぶつけるが、それでも加藤の表情が変わることはなかった。
そんな加藤が、ある証人の尋問で初めて涙を流した。
証人は女性。夫と娘とで秋葉原に来て、目の前で夫が刺された。遮蔽の措置が採られ、傍聴席からは証人が見えないが、声や娘がいることから察するに中年の夫人だろう。どこか地方の訛りがあり、親しみを感じる語り口である。
「家族で歩行者天国を交差点の方に歩いていたら、トラックが交差点に突っ込んでくるのが見えました。とても大きな音でしたね」と、淡々と語る証人。
「その後、交差点にいた人たちが一斉にこちらに向かって逃げてこられました。大変な形相でした。『逃げろ』という声が聞こえて、それが耳に残っています。主人も逃げろと言ったので、私たちも交差点の反対へ向かって逃げました。何が起こったのかは全く分かりませんでしたが、何かテロのようなものが起きたのか、という思いで逃げました」
テロが起こったと思っていたからか、証人を含め家族は身を屈めて逃げていたという。
「そのとき主人の背中のところへ、刃物を持った手がぐっと伸びてきました。背中の、右後ろですね。スッとナイフをかすめて、主人を追い越していきました。主人の背中からはだんだん血が滲んできました。早く犯人から離れて主人を静かなところへ連れて行かないと、とりあえず逃げました。路地に入って……行き止まりで主人が倒れました。すぐ近くにおられた方が、ビニールで傷口を押さえなさいと言われたのでその通りにしました。なかなか血が出ておりまして……、一刻を争うから早く病院へ運んでほしいと思っていました」
その後証人の夫は無事、病院へ搬送されたが、肺、横隔膜、肝臓に損傷を受け、一時はICUに入る程の重傷を負った。
検察官「今日は、どのような気持ちでいますか?」
「どうしてこういうことをしたのかと、やはり許せない気持ちです。この2年、家族が味わった悲しさ、悔しさ。やはりこの事件の前には戻らないということです」
検察官「処罰は?」
「自分の命をもって償ってほしいと思っています」
検察官「その他、言っておきたいことなどはありませんか?」
ここまで冷静だった証人だったが、ここにきて徐々に感情を出し始め、早口で語りだした。
「……亡くなられた方々、傷を負った主人を思うと、極刑を望むしかない。私たちは2年間、世間に晒されてきました! それなのにKは刑務所の中で(注:拘置所と思われる)生活していて、私たちと全然違います! 私たちは必死に働いて生きてきたんです! 主人もいつクビになるかと精一杯働いてきました! 私もそうです! アナタも、アタマで考えるんでなくて、体で働いて、償ってほしい! アナタのやったことは、許されることではないけど、何か1つでも、いいことをしていってほしい! 今日、臨席されている方々にも、こんな事件が二度と起きないよう、何をしたらいいか、考えてほしい! 知り合いであろうとなかろうと、隣にいる人を、思いやって生きてほしい! 以上です」
突如、感情を現し、加藤に訴えかけた証人。法廷は静まり返り、加藤は珍しく、小刻みにうなずき続けていた。
そして弁護人による反対尋問の途中。頬をピクピクさせていた加藤のまばたきが増え、しまいには鼻をすすり出し、頬につたう涙をスーツの袖で拭い始めたのである。完全に泣いていた。
終始無表情を貫き通していた男を泣かせた女性証人。彼女にはこれまで証人として出た関係者らと、事件の被害に遭った者としての悲しみや怒りは共通しているが、少し、違うところがあった。それは加藤との距離感である。
死ぬまでに何かひとつでもいいことを、という叫びは、彼女がまだ加藤には良心があると期待してのものであり、それに加藤が涙したのもまた、自分にはまだ良心があると思っているからだろう。
証人は、「犯罪は自分たちと縁のない鬼畜が犯すもの」というよくある距離感でなく、犯罪者も人の子だという認識をもって接しているように見えた。まるで親戚のおばさんから叱られているように錯覚してしまうほどの勢いだ。これがいわゆる母性というものだろうか……。
そして加藤は、おそらく犯行時も今も、誰かにかまってほしくてたまらないに違いない。
しかし、いずれにしても、その願望がこの段階になって、こんな形で満たされているのを見るのは皮肉なものである。
(文=高橋ユキ)
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