ラッシャーみよしの「エロ業界栄枯盛衰物語」第2回:1979年

エロ・パンデミック前夜 エロが一番自由だった時代

miyoshiero.jpg『下着と少女』発行:松尾書房。当時の先端を行く性描写が魅力だった。

 お尻が見えればオッパイも見た~い! というわけで、こういうものはすぐにエスカレートして、自分で墓穴を掘って、たちまち摘発されて、自爆してしまうわけですね(笑)。1978年に、「ミニスカートの下にパンツがない!」というスタイルから出発したノーパン喫茶は、やがてスカートがあってもお尻丸出しになり、シースルーのブラウスになり、ついにはトップレスになって、気がつけばチンチン・スコスコ、チンスコーと射精産業の仲間入りをしていたわけです。その間、わずか3年。1981年に銀座の『サントリー倶楽部』という店に警察が入ったのが最初の摘発と言われていますが、これを機に、見るだけのノーパン喫茶は姿を消して、チンスコーの方に、すなわち「ファッションヘルス」へと姿を変えていきました。

pansuke.jpg透けパンティーが当時の男性たちをムラムラさ
せていた

 1985年にできた新しい風営法は、ピンサロとソープとちょんの間のような古典的風俗しか想定していなかった法律を、この新しい業態に対応させるために改定したもので、それ以降、日本の風俗規制の基本になったものです。

 まさに、1985年までの5年間こそが日本エロ文化の黄金時代。1979年はこのエロ・パンデミックの前夜にあたり、なにやらふつふつと不穏なエネルギーが街にあふれていたのでありました。


 新宿歌舞伎町を例にしてみると、この頃の歌舞伎町はヤクザがいっぱいいて、ボッタクリが横行していましたが、熱気に包まれていました。ところが、ノーパン喫茶や覗き部屋などのきらびやかな新しい看板が目を引く一方で、その前をしょぼくれた立ちんぼが歩いていたりして、新旧風俗が渾然一体となった非常に不思議な光景を見せていました。

miyoshiero03.jpg今見ると逆に興奮する?

 当時日本人の立ちんぼは、消滅寸前の旧風俗の代表でしたが、それでも深夜から未明にかけて何人かあらわれ、泥酔客相手にレンタルルームを使って商売をしていました。平均年齢は40歳から50歳といったところ。戦後ヤミ市の時代からそのまま抜け出してきたような人たちで、中にはオカマさんも多かったと聞きます。

 「お兄さん遊ばない?」と誘われて、興味本位についていったレンタルルームの中での会話。

「ピンサロによく行くんですよ」
「ピンサロって何?」
「このあたり、ノーパン喫茶多いですね」
「それ何? セックスできるの?」

 彼女たちの頭の中もまた、戦後すぐから止まったままのようです。どんどん押し寄せてくる新しい波の中で、取り残された辺縁の売春婦たちの存在はあっという間に忘れ去られてしまいました。

miyoshiero02.jpgもっとじらして~

 一方、1979年はもう一つの新旧交代が行われた前年にあたります。自販機本ですね。若い人には馴染みがないかもしれませんが、40代、50代にとっては「エロ本といえば自販機」という時代がありました。

 人気のない通学路や、はたまた田舎の田んぼ道、幹線道路沿いのバス停のそばなどに設置されたエロ本専門の自動販売機。1970年代の前半に現れたこの販売機は「本屋でエロ本を買う」という苦悩から青少年を解放し、またたく間に大流行となりましたが、これまた80年に登場するビニ本によって淘汰される運命にあり、この年、最後の一花を咲かせていたのでした。

 この時代、10万部以上売れていたのが『下着と少女』(松尾書房)。アリス出版、エルシー企画、グリーン企画など自販機本専門の出版社は、翌年とんでもない大きな渦に巻き込まれることになります。

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